« 2007年8月 | トップページ | 2008年1月 »

2007.12.31

サッダームの命日(シリア訪問最終日)

シリア訪問3日目の30日、サッダームの命日に元バアス党員に会った。

唐突な話で恐縮ながら、綿井健陽監督の映画「Little Birds」をご覧に
なった方があれば、イラクの病院を訪問するNGOの活動のシーンで
私が登場するのはあるいはご存知かと思う。
バグダードの小児がん病棟を訪問して写真を撮らせて頂くことも多い
けれども、次回訪問した時には焼き付けた写真を渡せることが少ない。
なぜならすぐに亡くなってしまって会えなかったり、生きていても、
治るまでの期間を長期入院するよりも、少しでも具合が良くなったら
退院して自宅療養に切り替えるので、次に同じ子どもさんに会える
可能性が少ない、ということ伝えたかったのだが、実際そこで写真を
渡そうとしたら実は似ている別人だったという話でもある。

この話ではないが、宗教的に女性は例外として、男性や子どもの場合、
イラクの人をはじめ中東の皆さんは、本当に写真に撮られるのが好きだ。
次に会って写真を焼いて渡せる当てがあるわけでなくても撮って欲しい
と言ってくる。次に渡せないことがほとんどだけに、この一期一会の
出会いはいつも申し訳なく思う。
なので、いくらかでも写真を次に渡せる可能性がある時は、極力渡す
ようにしている。とは言いながら、中東で写真を焼く場合は、データを
預けて受け取りは翌日以降というところが多く、日本のように簡単に
デジタル写真を待ち時間十分以内に焼けるところなどは少ないので、
つい写真を焼いてもらうタイミングを失ってしまう。

今回のシリア行きの時も、前回11月訪問時の写真データを用意するところ
まではやったのだが、ヨルダンで事前に焼き付けることができなくて、
焼いた写真を出発前には用意できなかった。
諦めかけていたら、ダマスカスの宿のすぐ近くにPhotoExpressの看板を
見かけた。どのくらいExpress(早い)かが問題なので、最短でも数時間を
覚悟して恐る恐る聞いてみたら数分でできると言う。これはラッキー!
最終日にヨルダンに帰る前にもう一度訪問して写真を渡す機会ができた!
というわけで、例によってジャラマーナとサイダ・ザイナブをもう一回り
することにした。

【ジャラマーナ】
そう言う訳で前日に引き続きジャラマーナを再訪問。念のため立ち寄った
例のNGOのサービスセンターも、やはり閉まったまま。しかし訪問者は
やはりポツリポツリと現われては、年末休止中という張り紙を見て、残念
そうに帰って行く。

写真を渡せたのはイラクレストランのスタッフ。喜びついでにさらに写真
を撮って欲しいということで厨房の皆さんが勝手に全員集合してポーズを
取ってくれる。そこまでされてはこちらも撮らない訳にはいかない。きょう
撮った写真も次はいつ渡せるだろうか。
今回、焼いて持参した前回11月訪問時の写真の中にも、本人はバグダードに
帰ってしまってもうレストランにはいないというケースが幾人もいた。
やはりシリアからイラクへの帰国の流れがあることが、こんなことからも
わかる。

さて、今日はお茶だけにしてレストランを出て、メインストリートを歩く。
この辺りは固まって何軒もイラク向けのバスや4輪駆動車の手配を行う旅行
業者が軒を連ねている。店の前の通りにはたくさんの4輪駆動車が駐車中で、
屋根の上に荷物を満載している車もある。
そのようなところを通り抜けようとしたら、店の戸を開けて「ニンハオ」
と中国語のあいさつで呼ぶ声あり。
苦笑しながら声に応えてそのお店にお邪魔することにした。
中東に滞在したり旅行をしたことのある日本人であれば多くが同じような
経験をしたことがあると思うが、日本人は中国人に間違えられることが
非常に多い。

お店にお邪魔ついでにこちらも良い機会と気を取り直して、イラク行きの
便について質問して教えてもらう。予想通り、経営者も、一緒にいて声を
かけてきた人、そして店に雑談をしに来ていたもうひとりの人も全員が
イラク人だった。
ダマスカスからバグダード行きの4輪駆動車は午後の2時過ぎに出発し、
翌朝の8時にバグダードのチグリス川右岸、マンスール地区に到着する。
そのマンスール地区も以前は治安が悪かったのだが、今は大丈夫だと言う。
途中の通り道の安全も今では問題ないと言う。

バグダード行きの4輪駆動車のお値段は一人当たりUS$85-で、バスの場合
にはUS$24-(=1,200-シリアリラ)だと言う。
私が店に入った時間帯がちょうど午後2時過ぎに当たり、道の反対側に大型
バスが来て駐車するのが見えた。これもバグダード行きだ。



残りは世間話しという訳で、相手の話を聞くには自分の身元も明かさなくて
はならないので、イラクに関わる仕事でバグダード滞在経験があることを
話す。すると、相手も自分の話をしてくれる。
声をかけて来たアブ・アリさんはもともとバグダード市内のシェラトンホテル
のすぐ近くに事務所を持ち、ビジネスをやっていたのだと言う。そのビジネス
の内容までは明かしてくれなかったが、サッダーム政権崩壊後、ビジネスが
続けられなくなったのだと話す。そして、そのビジネスが続けられなくなった
理由が何であるかを、私が聞く前にあっさりと話してくれた。要するに自分が
サラハッディーン県の出身でこの地元出身のサッダーム・フセインを支持して
いること、そして、イラク戦争後のバアス党出身者の追放政策の影響を受けて
ビジネスが続けられなくなったということも。

シリアの旅行会社のビジネスはどうかと聞くと、今はシリアからイラク行きの
片道の通行が多いので、ビジネス的にはうまみはないと言う。
運転手もイラク人だが、その運転手もイラクに帰ったらシリアに戻らないこと
も多いと聞く。

ちょうどそんな話をしていると、店でつけていたイラクの衛星TV局のシャル
キーヤ(本部は英国)の放送はトップニュースのパキスタン情勢に引き続いて
イラクの国内情勢について報道している。おりしもきょう30日はサッダーム・
フセインが刑に処されてから1年になる。

アブ・アリ氏は続ける。「サッダームは偉大な指導者であり、イラクのヒーロー
だった。アメリカはシャイゼだ!」この「シャイゼ」という言葉の意味が分か
らず尋ねると、この言葉はアラビア語でもない様子。彼に言わせればドイツ語
で、どうも説明によると、ユダヤ人虐殺の時の「虐殺」に当たる言葉らしい。
裏を取らないと本当のところはわからないが、ここでは彼の言った通りの使い
方で書いておく。
彼はこの言葉がお気に入りのようで、日本のヒロシマやナガサキもアメリカの
せいでシャイゼだと言う。

「サッダームを失い、アラブの人々は皆、悲しんだ」と言って、サッダームを
自分が支持する証として、持っていた腕時計を見せてくれた。時計の文字盤には
サッダームの像が描かれていた。

どうも話が出来過ぎているという感じもしなくはなかったが、彼の言うことを
信じるしかない。
「サッダームを失って悲しい。アメリカは大嫌いだが、日本は好きだ。」と
彼は別れ際に言った。彼に限らずなぜか日本びいきのイラク人が多く、これは
ありがたいことだが、その逆でどれだけイラクの事を日本人が興味を抱いて
いるのだろうかとうことが心配になる。

【サイダ・ザイナブ】
結果的には、以前に写真に撮った人々には再会がならず、写真は渡せなかった
が、前日は夜に訪問したことで観察ができなかった昼間のイラク行きの自動車
ターミナルの模様を見ることができた。

駐車場の手前、モスク側にたくさん駐車していて目立つ大型の観光バスはイラン
からの巡礼者のもので、ナンバープレートがイランのテヘランナンバーである。
奥のイラク行きのターミナルは、やはり9月までの雰囲気とは異なり、バスは
少ない。しかし、前回の11月との比較で気がつくのは駐車している4輪駆動車の
多さだ。
 
【イラク行き4輪駆動車の列】     【巡礼者の観光バスはイランナンバー】

勝手に邪推すると、10月以降、シリア滞在にビザが課されるようになったこと
で、大勢が国境まで移動し、いったん出国した後にシリアに再入国する流れが
なくなり、この移動に主に使われていた大型バスの発着が少なくなった。
また、やはり10月以降のいわゆるイラクの治安回復理由でのイラクへの帰国の
流れの中でも、経済的にひっ迫している層の人々(交通手段も主にバス)は
いち早くシリアからイラクに帰国してしまっていて、今の帰国の流れの中では
最下層よりも中の下以上の人々が多くなってるのではないか、このためにバス
よりも4輪駆動車による移動が多いのではないか。
この仮説を検証するには統計などの裏付けが必要なので、現時点では何とも
言えないが、表面的に観察したところではなんとなくつじつまが合う気がする。

最後に訪ねたモスク隣接のイラク人街では、子どもたちに写真を撮ってくれと
取り囲まれ、せがまれて大変だった。しかしそのことよりも、最後に心残りと
なったのは物乞いの子どものことだ。イラク人ともシリア人とも区別がつかない
その子どもと目が合ってしまったがお金を渡してあげることができなかった。
ヨルダンへの帰途に備えて、手元には高額紙幣しか残していなかったので。



ここでなくてもしばしば途上国支援などでも議論になるのは物乞いにお金を
渡すよりもそのような物乞いが必要ない社会を作ることの手助けをすることが
大切という議論である。物乞いの中にもこれが一種の職業になっていて、
ヨルダンでもそのような物乞いが祝日に繁華街の人出を当てにしてやって来る
のを当局が排除しようとして新聞ダネになっているのを見たりするし、
イラクでの経験でも広場に出てくる、乳飲み子を抱えた母親の姿の物乞いも
実はあっせん業者が絡んでいて、子どもは実の子どもでなくてレンタルの
場合もあるというのは見聞きして知っているので、これには悩むところだ。
むろん、物乞いが定職になっているとしても、必要に迫られてやっている
ことであれば、保護なくして排除の論理はおかしいし、地域全体の支援という
お題目の前に、その日暮らしの目の前の人々にわずかな施しでも与えることが
必要であればやるべきだという考えもあるだろう。
この問題に関しては一般論で正解は持ち得ないと思う。
ヨルダンへの3時間半の帰路、そのことを考えつつ過ごした。

続きを読む "サッダームの命日(シリア訪問最終日)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.30

”教授”のバグダード通い(シリア訪問2日目)

ダマスカス訪問の際にはイラク人難民の多く住む地域を訪問することに
している。
9月以来、毎月の訪問になっているので、結果的に定点観測になっている。
むろん、正式な許可を得ての調査でもないし、通訳を同行させている訳
ではないので、やれることは限られているが、行く度に思うのは、やはり
現場の空気を吸い、雰囲気を味わうことの大切さである。

イラク国内の「現場」でこれができないことが問題ではあるが、実績のある
国際NGOでは、ローカルスタッフの協力や現地NGOとの連携により、
2004年の段階からいち早く対応している。今では現地のプロジェクト遂行は
ほとんどイラク人スタッッフが担っているし、イラク国内NGOの中にも
優秀なスタッフがきちんとした活動を進めているところもあるので、治安
理由で制約がないとは言えないが、それにより活動そのものができないと
いうことはない。

報道などでは、2004年春に私がバグダードを最後に出た時期以降、そこに
日本人スタッフがいないことで、日本のNGOが「撤退」とも書かれ、
紛争地での人道支援ができないかのように書かれもしたが、現地の活動は
困難であっても不可能ではない。このことをこの機会にここで今いちど
強調しておきたい。
むろん国際スタッフの命に限らず、場合によっては現地で活動している
イラク人スタッフの命が危なくなることもあるので、命は平等であるし、
安全には万全を期するに越したことはないが。

前置きが長くなってしまった。それで今回の訪問で感じたことであるが、
確かにバグダードをはじめとしてイラク国内の治安が改善されたことも
あって、シリアの避難民たちも帰国しようという流れになっているようで
あるし、闇の先に光明を見出す雰囲気になりかけているようではある。

【ダマスカス中心部のサービスセンター】

確か9月からだったと思うが、UNHCRとWFPがイラク難民に対する
食糧配給を始めており、この登録作業のための大テントがダマスカスの
中心部の広場に出現している。



前回、11月の訪問時は、作業そのものは進められているものの、比較的
閑散とした印象があった。しかし、今回は多くのイラク難民が詰めかけて
いる様子が見られた。この日は土曜日で、確か国連職員などは休日扱いの
日だと思っていたが、活動そのものは土曜日も進めているようだ。
国連職員以外に数多く現場にいるスタッフはは赤新月社の札をつけていた。

さて、集まっているイラク人は、この支援が家計に関わる経済支援のためか、
女性の姿は少なく、男性の姿が多い。
(イラクでは女性の社会進出は日本で思われている以上に進んでいる方だと
 思うが、それでもアラブ社会一般で言えば、一家の大黒柱は男性という感覚。)

以前の訪問でUNHCRシリア事務所の関係者から聞いた説明では、ここで
サービスを受ける対象者はすでに難民として登録されている人々に限られ、
難民登録やインタビュー待ちの人々は含まれていない。
確かに詰めかけている人々は皆、難民登録証を持ち、掲示板に書かれている
登録番号と自分の登録証の番号を照合している。

掲示板の日付は2008年1月5日から始まり、途中抜けている日もあるが、17日
までの日付になっていた。きょうここで登録確認をして、その上で実際の
配給やサービスを受けられるのが年明けになるのではと推測する。

【ジャラマーナ】
市内から国際空港に向かうハイウエイに乗り、郊外に出たところにある地域。
以前からパレスチナ難民キャンプもある地域で、イラク人の中ではキリスト
教徒やスンニ派が多く住む地域である。
最初に某NGOが営むサービスセンターに足を運んだが、12月28日で今年の
営業を終えたとの張り紙があり、閑散としていた。それでも、数名、書類を
抱えたイラク人と思しき人々が訪問して来ては、張り紙を見てしばし佇み
帰って行った。ここを11月に訪問した時には支援を求めるイラク人避難民の
姿でごった返していた。年明けの営業再開時にはどれだけの人々が詰めかける
だろうか。

その後、メインストリートに面しているイラク人経営のレストランに立ち寄る
のも訪問時のいつものルートになっている。
このレストランは経営もそうだが、従業員もイラク人、客もほとんどがイラク人
なのでここに来れば確実イラク人に会えるというところ。
私にとっては、イラク式のおいしい料理が食べられることが目当てでもある。
既に顔見知りになっている従業員にあいさつをして席につき、イラク式ケバブの
サンドイッチを注文する。ケバブと言うと、他の地域では普通はトルコ式の肉の
串焼きが出されるが、イラク式はひき肉を香辛料と合わせたものを串焼きにした
もので、例えればハンバーグの味わいだ。



それで、これにかぶりついていると、一緒の席になったイラク人が話しかけて
来る。これも良くある話。いとこ同士だと言うふたりの男性が同席で、うち
ひとりが片言の英語がわかるので雑談になる。
ここで話しかけて来たAさんはバグダード大学の歴史学の先生で、ヨーロッパ史
が専門だと言う。
アラブの国々では理数系の方が実学として役立つので人気が高く、大学入学の
ための共通試験の高得点者から順番に進路を決め、その際にも理数系を優先に
選ぶような国柄と言うこともあり、今まで文科系の専門の学者や学生に出会う
ことがイラク人に限らず少なかったので、この機会はこちらも興味津津である。

この「教授」は家族をシリアに置き、自分はバグダードの大学で教鞭を執って
いると言う。バグダードの治安は良くなったし、同僚でやはり家族をシリアに
置いていた人々もみんなイラクに帰っているとのこと。
しかし、この先生の場合は、シリアの高校に通い、卒業間近の息子さんがいる
ので、今学期が終わる2008年の5-6月頃までは家族をシリアに置いて、自分ひとり
バグダードに住むという生活になっている。子どもさんの通う学校はシリアの
普通の公立高校で編入は許されているし、費用の負担もないと言う。

初対面であるし、政治的な話には触れないつもりでいたが、向こうから話しかけ
て来て、日本がアメリカと戦った歴史を彼は褒めたたえる。さすがに歴史の先生
だけあって詳しい。第二次大戦を戦った旧ドイツまで彼は褒めた。
「米国は嫌いだ。日本だってまだ米国の基地がたくさんあるのだろう。お前は
 米国をどう思うのか?」と聞くので、「現政権は好きではないが、アメリカの
 人々と政府は別に分け考えた方が良いのではないか。」と答えると、彼は首を
振って、「私はアメリカの政府もアメリカ人も嫌いだ」と言う。
それ以上、多くを語らなかったが、かなり嫌な思いをして特別な思いを抱いて
いる様子だった。

店を出ると「帰りはバスに乗ろう」と誘うので同行することにした。何でも彼が
住んでいるのはダマスカスの別の地域(ちなみにジャラマーナより中心に近く、
比較的裕福な地域)だと言う。職業に貴賤はないし、ジャラマーナの人々には
悪いが、大学の先生がジャラマーナに住んでいるとは考え難いのも確かである。

彼はイラクレストランに勤めるいとこに会うためにジャラマーナに足を運んだ
のだと言う。「いとこに会うのも2か月ぶりだった」と言う。
この先生のように、中流のクラスの人々になると、収入もなく、食べて行くだけ
で精一杯という人々とは暮らしぶりが異なるが、それでも国をはさんで家族を
置き、親族同士もなかなか会えないのがイラク人の現状で、それぞれの悩みを
抱えていることが窺われた。

【サイダ・ザイナブ】
ダマスカス郊外で、シーア派のサイダ・ザイナブモスクを中心とした、門前町
のたたずまいの地域。
そのような関係から、イラク人避難民の中ではシーア派の人々、そしてイラン人
が多く住む地域である。モスクにはイランからの巡礼者も多数訪れる。



後から聞くところによると、この日はシーア派のアリーを記念する日のため、
イラクでも聖地カルバラ詣でをす人々で賑わっていたのだと言う。
(バグダードではイード期間中のサウジのメッカ巡礼(ハッジ)帰りの巡礼者を
 迎える催しでも盛り上がったのだとか。)

この日のサイダ・ザイナブモスクも巡礼者で賑わっていたが、普段から賑わって
いるところではあるので、見た感じでは前回11月との違いはよくわからなかった。
サイダ・ザイナブモスクの裏手の駐車場はバグダード行きのバスやGMC(4輪
駆動車)のターミナルになっているので、ここも定点観測のつもりで毎度訪れて
いる。今回はバグダード行きの便が多く発着する時間帯の夜6時以降を狙って
行ったが、バスの数はそれほど多くない。しかしこの駐車場に止まっている
イラクナンバーのGMCの数の多さが、前回11月と比べて目立つ。駐車場から
見てモスクの反対側の通称「イラク人街」でも、GMCの出発が目立ち慌ただ
しい。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.29

なぜかイラク人に良く出会う日(シリア訪問1日目)

12月28日(金)

パキスタン元首相の葬送の模様を中継するTV放送を横目に旅支度。

ヨルダン滞在ビザ延長の代わりに出国し、隣国シリアに行くのも
これで今回のヨルダン滞在中4度目になる。(9月、10月、11月、12月)

アンマン市内からバスに乗り、シリアに向かう。
今回は定時の午後3時きっかりに発車したのには驚く。
日本の感覚では定時発車は当たり前のはずだが、ここはアラブの国。
このバス会社は定時運行を売り物にしている会社ではあるのだが、
それでもこれまで何回か利用して来ていて、一度も定時運行だった
試しがなかったので、それで今回は驚きだったのだ。

途中、通りがかりにイラク行きの乗用車の発着場の模様を見るのは
いつものこと。
車窓から一瞬見るだけなので、うっかりすると見過ごしてしまう。
ここ数カ月はこのアンマン市内の発着場を利用する人もなく、閑散と
していたのだが、きょうは数台の4輪駆動車が止まって、乗客を乗せて
いる様子が目に入った。

わずかながらでも賑わいを取り戻しているこのような様子を見ても、
アンマン=バグダード間の陸路に関しても、通過するアンバール県や
最終目的地のバグダードの治安の改善の影響が表れているのではないか
と推測する。

確かに、イード休暇を利用して様子を見にイラクに一時帰国した後に、
再びアンマンに戻って来たイラク人の知り合いのAさんに数日前に会っ
た時は、彼もバグダードより西部の地域の治安に関しては問題なくなって
来て、街中では店も開いているし、希望が持てるようになって来たと言っ
ていた。
(そうは言っても、爆破で交通の要所が破壊されるようなことはあるし、
 電気や水、子どもたちの学校教育などの点で基本的な生活サービスが
 まだ不十分なので、家族連れで帰国できる状況ではないという留保つきだ。)


【写真:アンマンから北上しシリア行きのルートはザルカの先で途中で
 イラク方面への道が分岐する。私たち外国人が心配なくこの先をイラク
 方面に行けるようになるのはまだまだ先のことだ。】

さて、ヨルダン=シリア国境には1時間ほどで到着。ここまでは順調だっ
たが、出入国管理事務所がかなり混み合っていて、国境通過に手間取った。
前々回の10月のシリア行きの際は、なぜかパレスチナ人の団体が多く、
シリア入国に手間取り混み合っていた。この時はラマダン明けイード休暇
の真っ最中ということでそれなりに混んでいる理由がわかったが、今回は
よくわからない。

バスの数が明らかに普段以上に多く、そのバスにはトルコ語の表記が多い。
果たして、入国管理事務所に足を向けると、トルコ人の団体が外国人向けの
入国窓口をふさいでいる状態になっていた。
アラブ式のやり方では、こういう時に、お行儀良く列に並んで自分の番を
待っていても、自分の番はたぶん永遠と言って良いくらい回って来ない。
ずうずうしく立ち回った方が勝ちの世界なのだ。
従って、最前列までにじり寄り、係官の顔色を見てパスポートを突き付ける
競争に参加することになる。とは言っても、ずうずうしくやり過ぎて係官の
心証を害してもいけないのでタイミングが難しい。

このような窓口競争に参加している間にも、今回の特徴として気がついた
ことがある。ヨルダンからシリアに入国しようとするイラク人が結構居る
ことだ。
数か月前までにはそのような姿を見かけることはほとんどなかった。
もちろん、私のわずかな経験の中で出会ったかどうかという問題なので、
統計的な根拠がある訳ではないのだが、本当に前回まではほとんど見かけ
なかった現象だ。
今回見かけたのは、男性の一人旅と、子ども連れの女性(なぜか終始、
英語をしゃべっていた)などだが、身なりなどから勝手に推測する限り、
中流以上の生活をしている人々で、あらかじめシリアのビザを取得して来て
いるか、またはビジネスでの移動のように見えた。

結局、アンマンを発ってから4時間後の午後7時過ぎにダマスカス市内に
到着。

夕食後に町を歩いていると、なぜかシリア人で英語を勉強しているという
学生さんに声をかけられ、お茶を飲みに行ったのは良かったが、結局金を
持っていないと言うので、こちらがおごる羽目になったという変なできごと
もあったが、詳細は省略。

最後はホテル近くのインターネットカフェにノートPCを持ち込んでつなごう
としていたら、隣の机のアラブ人がとあるHPから音楽をダウンロードしよう
として格闘中のところだった。
スピーカーで音楽を流しながらなので、聞くともなく聞いていると、どう聞い
てもイラクについての歌詞だ。

アラビア語ができない私にも勘でわかる位で、曲はラップを踏みながら、
「水がない、電気がない」と歌っている!

メロディーもなかなか面白いし、とうとう誘惑に負けて、このアラブ人に話し
かけたら予想通りイラク人だった。バグダードの南のバビロンの出身だと言う。
建築関係の仕事をしていて、仕事のためにシリアに来ているのだそうだ。
出身地のバビロンの治安も良くなってきていて、彼は問題ないと言う。

彼がアクセスしていたサイトは、イラクに関するお笑いのサイトで、音楽も
イラクの生活を皮肉ったものだと言う。
面白いので、このサイトのURLを教えてもらった。
http://www.akhlad.com/

後から考えると、このイラク人から見れば、アラビア語も満足にわからない
のに面白がって尋ねて来た東洋人の方が奇妙だったかもしれない。

このような風刺のサイトも少なくないが、イラクでは治安が悪化している中
では、外出もままならない時にはTVが唯一の娯楽なので、笑いで人々の不満
を解消し、癒すために、TV番組でもお笑いやシリアスでないドラマが結構
流行っているのだと聞いたことがある。もちろんシリアスなドラマや報道も
あるし、そもそもそのTVを見るのにも必要な電気に事欠く状態であることも
一方の現実である。


【写真:ダマスカスの夜、スークハミディーエ付近】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.28

パキスタン炎上

パキスタンのブット元首相が暗殺された。

ヨルダンにいると近隣国のレバノンをはじめとして要人の暗殺のニュースに
接することが少なくなく、いちいち驚かなくなってしまうという、ある意味
困ったことになってしまうのだが、さすがにきょうのニュースには驚いた。

日々、ニュースに注目していると中東のみならず、各地の動向に敏感になる。
隣国のアフガニスタンの動向にも大きな影響を与えるだけにパキスタンの政治
動向にももちろん注目して来た。それでも今回の事態はさすがに予想外だ。
直前に他の対立候補も襲われているし、ブット氏自身、襲われるのは二度目
なので、前兆が無かったとは言えないのだが。

アフガニスタンのカルザイ大統領が昨日パキスタンの首都イスラマバードを
訪問し、ムシャラフ大統領に引き続いて政治的には対立候補になるブット氏
とも会談を持ったとのニュースを見たばかりなので、そのブット氏が亡く
なったということに実感が湧かない。

さて、今回の事件をテロと見るべきかどうか。
銃による狙撃の直後に自爆することにより、警備の警官はもとより市民を
巻き添えにした行為はテロ行為の要素を持っているが、狙撃の目的が明らか
に政治目的の要人暗殺であり、また、警備が厳重な中でこれだけの行為を
働くことができた裏にも政治的に何かあるのではと勘繰りたくなる。
単純な自爆テロ攻撃とは考え難い。

ブット氏の追悼番組で、生前のインタビューで本人が語っていた言葉が
流されていた。パキスタンが世界第二のイスラム国であるとのことばも耳に
残ったが、極めつけは次のことばだった。
「”対テロ戦争”はアメリカの戦争であって、パキスタンの戦争ではない。」
この言葉がひどく気になる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.27

気になった新聞記事(12月16日付JordanTimes)

少々前のことになりますが、ヨルダンの現地英字新聞のJordan Times紙に
気になった記事があるので日本語に訳出しておきます。

Officials rise to tough task after Amman attacks
http://www.jordantimes.com:80/index.php?news=4391
(Jordan Times, December 16, 2007)

”アンマン攻撃後、当局はより困難な課題に取り組んでいる”
(ヨルダンタイムズ12月16日。タイラー・ラック氏署名記事)

カラマ国境検問所にて―
 カラマ国境の検問所(訳注:イラクとヨルダンの間の国境検問所)は毎日ヨルダンを入出国する幾百もの通行があって、その多くが貨物を満載したトラックやトレーラーであったりするわけだが、厳格な治安対策は今やこれらの通行に際して共通の特徴になっている。

「2年前にはこのようなことはなかった」と、アブ・タリクと名乗る治安当局の責任者は言い、治安対策は長く延び延びになっていたとしている。

 当局によると、2006年以前には、ほんの片手ほどの国境管理スタッフしか居なかったが、2005年11月にイラク国籍の者によって
3つのアンマンのホテルに対するテロ攻撃が行われ、これが目覚めのきっかけ(モーニングコール)になった。

 現在はヨルダンにイラクから入国しようとする者は、「良からぬ意図を持って入国しようとする者を根こそぎにしようと」するための厳密な検査を受ける。
 3ヵ所のそれぞれ独立した検問所で、国境管理官は最新の注意を払って、車両や乗客と車をチェックする。

 ここヨルダン東方の砂漠の中、紛争で荒廃した国との国境では、およそ何でも起こり得る、と当局者は言う。
「車やトレーラーを止めている時に、何を見つけることになるか、知る由もない。」
 と、ある国境検査官は言う。車両にはタバコや麻薬や、爆発物や、あるいは密航者までもが隠されていたりする。

 更には放射線探知機がトラックの本体や積載物の放射線レベルを探知して、探し出す必要があったりする。

 アブ・タリクによれば、数年来の紛争によりイラクのいくらかの地域が汚染され、これによりある特定の地域の埃や泥が放射能を帯びる。国境の治安担当者は運転手が2度目の検査(スキャン)にかける前に埃を洗い落とすことを許可する。
 数年に渡る戦争がイラクの土壌を汚染しているので、国境を越えて来る物資で最も共通して良くある、放射能を帯びた品目は農作物である。
 国境管理官はデーツ(ヤシの実)を積んだトラックの入国を拒否する必要があった。なぜならその放射能レベルが高すぎたからだ。と彼は言う。
「(人だけでなく)イラクから出て来る食品でさえ信頼できない。それらも危険を抱えているから」とアブ・タリクは言う。

 放射線の測定の後、国境検査官は車両のタイヤの空気圧も図る。もし空気圧が異常値を示したら、往々にして何か爆発物や麻薬が隠されていたりする。

 第二段階の検査では、検査官は麻薬や爆発物の探知犬を使って車両を検査し、乗用車やすべての運転手の所持品を検査する。

 第三段階でトラックや車両がくまなく駐車場で調べられている間に、最後の、そしてたぶん最も厳しいテストが入国審査(イミグレーション)カウンターで行われる。

 ここが、ヨルダンに入国しようとする人々が不安を抱きつつ待つところである。入国しようとする人々の80%はイラク人であり、彼らのパスポートやそのほかの書類は厳格に審査される。

 この道20年の経験を持つ入国審査官のアブ・サラームは、イラク人のパスポートが最も審査が難しいと言う。
 古いパスポートの写真に共通してよくある問題は、薬品で簡単に剥がして別の新しい写真に張り替えられているケースだ。
 アブ・サラーム曰く、最悪なのは手書きの「S」パスポートで、これは2003年3月の米国主導のイラク侵攻の直後に導入されたパスポートである。
 この種のパスポートは多くの国で有効であるとみなされない。なぜなら、バーコードやデジタル暗号などを備えていないので、変造に弱い、標準以下の機能しか持っていないためだ。

 多くのこうした「有効な」パスポートがバグダードの街頭で20米ドルで買えるとアブサラームは言う。
「これ(パスポートの偽造」はイラクで繁盛するビジネスになっている。紛争を避けて脱出しようという人々には他の方法は残されていないからね。」と彼は言った。

 今年の5月、ヨルダン内務省は「S」パスポートを持つイラク人のヨルダンへの入国許可は12月末をもって停止すると発表した。
 この問題に対応するため、イラク政府は新しい「G」パスポートを発行した。デジタル暗号と写真の表面に印刷されたバーコードホログラムや透かしを備え た新しいパスポートは簡単に偽造が可能だった旧式のパスポートより遥かに優れている。
 成功を期して、イラク政府は今年の早い段階ですべての「G」パスポート以外の旅券が2008年末までには有効でなくなると発表している。

 しかし、多くの改善が施されているにも関わらず、「G」パスポートでもまだ変造は可能であるとアブ・サラームは言い、実例を手にとって見せた。
「情報は正しい。印鑑やバーコードも正しい。しかしこの人物はイラク人ではない。」 
 そのパスポートの人物は実際にはサウジアラビアの人物であって、写真を差し替え、偽のホログラムを手に入れていた。
「イラクのアブ・ニーダルテロ組織」の一員であったこの人物は、ヨルダン国内で攻撃を仕掛ける意図を持っていた。と審査官は語った。
 この審査官によれば、プラスチックの写真カバーにわずかな波立ちがあり、これによりパスポートが変造されたのではないかとの疑いが生じ、更なる捜査と生体検査(バイオスキャン)がこれを決定づけたのだと言う。

 ヨルダン国境の治安と安全を確保するために日々多くの課題に直面しているにも関わらず、国境審査官はヨルダンに入国しようとするイラク人に同情を寄せる。
 激しい宗派間抗争の結果として、危険過ぎるので多くのイラク人がバグダードに行ってパスポートを取得することができないでいる、と彼は言う。
「彼らは暴力から逃れるためだけにここ(国境)に来ます。しかしどうやって私たちに人道的なケースか、あるいはテロリストであるのか見分けがつくと言うのですか?それはとても不可能です。」と彼は付け加えた。
(以上、ブログ筆者訳)

2005年11月のアンマンでのホテル爆破事件以降、治安対策上、イラクから
ヨルダンへの入国規制が厳しくなっていることは、特に目新しい内容では
ないのですが、国境での放射線測定で引っかかるケースが結構あることや、
新型パスポートでも偽造のケースが発覚していることなどが、今回新たに
注目される点です。
シリアなどでもイラク産のデーツなどは簡単に手に入り口に入れることが
できるだけに農産物の放射能汚染の可能性については危機感を感じます。


(11月にシリアのイラク人街で購入したデーツのシロップ。もちろんイラク産)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.26

ヨルダンで迎えたクリスマス

12月25日(火)

「クルアーム・ワ・アントン・ビヘイル」
街ではまだこのあいさつのことばが聞かれます。
きょうはクリスマス。ヨルダンも休日になっています。
イスラームの国ではありますが、少数派ながらキリスト教徒もおりますし、
イスラームも先行する世界宗教であるユダヤ教、キリスト教、仏教を尊重
する立場ですから、キリスト教のお祝いごとに違和感はないと聞きます。

私はクリスマスと言うと、4年前の2003年のクリスマスイブを思い出します。
もう4年も経ったのかと感慨がありますが、この時はクリスマスイブの晩に
4輪駆動車に乗ってアンマンの町を発ち、陸路で隣国イラクのバグダードに
向かったのでした。イブの晩のクリスマスイベントで賑わい、高級車がずらり
と並ぶアンマンの五つ星ホテルの横を4輪駆動車ですり抜けて行ったのを、
昨日のことのように覚えています。今もアンマンはクリスマスの賑わいが
見られますが、あのようにイラクに出かけることはなくなってしまいました。



今年もアンマンの街では普通にクリスマスの飾りを見かけます。
まあ、これも日本と同様で商業主義だと言ったら元も子もないのですが。

しかし、やはりここで特別なのは、ヨルダン川の近郊はキリスト教の
言い伝えの地であると言うこと。

私はふだん、ヨルダンで自分の宗教について聞かれた時【*】には、説明が
面倒なので、つい仏教徒と答えて逃げてしまいますが、育ちの関係で幼稚園
から小学校まで教会の日曜学校に通い、最終的には卒業した大学もキリスト
教系ということで、かなりの部分、キリスト教の影響を受けている自覚がある、
クリスチャンもどきなものですから、やはりこの季節にこの地にいることには
特別な感慨を覚えます。

イエス・キリスト生誕の地であるヨルダン川西岸、ベツレヘムでの礼拝の模様、
そしてイラクでのキリスト教の礼拝の模様を報じるTVを見ながら、ひとり
自分の中の「神」との対話を試みるひと時を過ごしています。


(写真はバスの車窓から見たアンマンの北、バカーのパレスチナ難民キャンプの
 近郊の模様。ヨルダン川西岸のパレスチナの風景もこれに似ていると言った
 友人がいた。撮影=12月24日)

【注】私は宗教とは人間ひとりひとりの生き方であり、世界観の反映だと
   思っていますが、中東の人々の宗教感覚もそれに近いのではと思う
   ことが良くあります。彼らは人生観を尋ねるのと似たような感覚で
   信仰について聞いて来ます。
   無宗教とか無信仰と言ってしまうと、自分の生き方にポリシーが
   ないと言っているのと同様な感覚になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.23

イード2日目(木曜日)のバグダード

12月22日(土)

ヨルダンのイード休暇はきょうまで。明日から通常通り仕事がはじまります。
(もともとイスラーム国なので、週末は金曜と土曜の二連休で、新しい週は
 日曜日から仕事が始まります。キリスト教の某団体は金曜休みの後、土曜は
 仕事。日曜は礼拝のため休みの後、月曜から勤務開始という変則勤務です。
 それはそれで大変ですね。)
でも連休最後のきょうまで挨拶の言葉が飛び交っています。
Kulam wa antom bekhair(クルアーム・ワ・アントン・ビヘイル)
「あなたがたが平和でありますように!」とのこのことばも、最初に意味を
教えてもらったのはバグダードでイードを迎えた2004年2月のことでした。
(このブログでは2005年のラマダン明けイードの時、11月3日にもこのことに
 触れています。)
 http://rep-eye.cocolog-nifty.com/iraq02/2005/11/post_1d2e.html

アラビア語で「こんにちは」に当たる普通のあいさつのことばである
「アッサラーム・アレイクム」も字義通りの意味は「あなたに平安あれ」と
言う意味になります。英語の通訳などもよく「May Peace Upon You」など
と訳していて、私の好きなことばのひとつです。

日本で中東やイスラームと言うとどうも暴力的なイメージで誤解されがち
ですが、これらの言葉を見ても、平和を大切にする人々であることがわかる
と思います。

さて、バグダードの知り合いからはイード2日目(木曜日)のバグダードの
模様が写真で届いたのでご紹介します。もっと大きい写真もあるのですが、
安全上の懸念が捨て切れないので、この程度でご勘弁を。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.22

バグダードとの会話から

12月21日(金)

折角の祝日、金曜日であるのに、パキスタンのペシャワールではこの金曜
礼拝を狙った自爆があったとかで朝から良くないニュースが伝わって来る。
けさから拡大欧州の条約国間の国境管理が緩和されたとのニュースも
伝えられているが、このニュースでも課題は域外からの違法な物資や人の
流入だとかで、そのような例の中にもトルコ経由で欧州域内に流入しようと
するイラク難民が引き合いに出されいたりして、朝からニュースを聞くのも
気分が悪い。

国連イラク特別代表はアル・ジャジーラのインタビューに答えて、イラク人
自身の力量の高さを挙げて来年以降のイラクの再建に向けて楽観的な見通しを
語っていたが、ぜひともそうあって欲しい。

2003年の戦争後4年半のイラクと付き合って来てみると、今度こそは何とか
なると期待しては裏切られる出来事の連続だったので、どうしても先行きの
見通しに楽観的になれない。

そんな考えを正直に連ねながら、遅ればせながらのイードの挨拶文のメールを
バグダードの知り合いのドクターに送った。
早速帰って来た返事は意外に楽観的なもので、「お前が思っているよりも
来年については楽観的に考えているよ」という内容だった。

外野の私なんぞが心配するよりもイラクの中でまだ残って頑張っている当の
本人のイラクの人々の方が大変な思いをしていることは間違いないのだが、
そのイラクの人々がまだこのようしたたかさを残していることはわずかながら
希望が持てる。

夜になってからドクターのひとりに電話をかけ、さらに詳しい話を聞いた。
先行きについてはやはり何とか来年には少しは良くなると楽観的な口調だった
ものの、今の状態については実際はなかなか厳しい。

イラクは19日から25日まで公休で、普段は激務のドクターもまとまった休みが
取れているのだという。
しかし、普段の激務ぶりにさすがにこの4年間の疲れが出て来ていることも
否定しない。休みの間も入院患者の急変に備えて若手の医師が交代勤務に
ついており、この医師や患者からも直接電話連絡があったりすると言う。
テロリストか誰かに自宅を壊され、家を追われた患者家族が、患者の治療と
身の安全の両方の目的のために入院している例もあるのだと聞かされると
まだまだ情勢の厳しさを感じる。

19日から25日までの7連休も、19日から22日までの4日間はスンニの犠牲祭、
21日から24日まではシーアの犠牲祭、25日はクリスマスと、宗教、宗派を
問わずに一斉に休みを取れるようにとの配慮の結果だと聞く。

ドクターの言葉は続く、
「2か月前の2007年10月のラマダン明けイード(Eid Al-Fitr)も、今回の犠牲祭
 (Eid Al-Adha)も、市内を外出して互いに訪問し合うことのできる数少ない
 機会で、このような機会を持てるのは実に2005年以来のことだ。」

このような言葉を聞くと、彼ら自身が楽観的であり続けなくてはつぶれて
しまうのではないかという危機感を感じる。

とりあえず、このまま平穏な休日が続いて欲しい。そして来年に希望が持てる
ことを願う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.20

犠牲祭(Eid Al-Adha)@イラク(バグダード)

私が最初に犠牲祭を迎えたのは2004年2月のイラク、バグダードでした。
この時は今と比べればまだ治安が良い時期であったので、街頭で犠牲に
捧げるヒツジを売っていたり、休みに入ったところで新しい服やおもちゃ
を買ってもらった子どもたちの歓声が聞こえたものでした。自分にとっては
昔の日本の正月を思わせる懐かしい風景でした。

その後、今の治安情勢の中で、バグダードの祝祭の賑わいがどこまで戻って
いるかが気がかりです。

ヨルダン南部で犠牲祭を過ごしてアンマンに戻ってみると、バグダード
在住の知り合いから犠牲祭の模様を知らせるメールが届いていました。

 

移動式の街頭遊園地の遊具(観覧車?)で遊ぶ子どもたちの姿がそこに
ありました。
願わくばこのひと時の平和な模様がこの場だけでなく、バグダード市内の
全体、そしてイラク国内に広がりますますように、そしてこれがつかの間の
平和に止まらず、長続きしますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

犠牲祭(Eid Al-Adha)@ヨルダン南部(2)

12月19日(火)

マアーン郊外のアリさん宅でお世話になり、6時半起床。
周りは砂漠なので夜は寒いのですが、暖房のおかげでとりあえず
大丈夫。
サウジのメッカ巡礼も前日からこの日が山場で、TV中継もカアバ
神殿で礼拝を行う巡礼者の模様をずっと中継していました。
(今年はこの中にイランのアハマディネジャド大統領がおり、
 サウジとイランの関係改善という政治的意味を負っていました。)

朝7時過ぎからこの日の大仕事、ヒツジの屠殺となりました。
さすがにナイフさばきは私たちの手に負えるところではなく、家主
のアリさんが務めます。近頃では必ずしも各家で屠殺ができるとは
限らず、この日も親族から頼まれたとかで、その分も含めて二匹の
屠殺となりました。


(連れて来られる途中の雄ヒツジ。二歳。妊娠していてはいけない
 ので、イードの犠牲に捧げるのは雄ヒツジに限るという。)


伝統に乗っ取り祈りを捧げた後にナイフを頸動脈に当てて首を切り、
血を抜きます。
(血液はイスラームでは不浄なものとされているとのことです。)
その後は皮を剥がし、内臓を抜き、肉を切って処理をします。
内臓も食材になりますし、残りは番犬の餌にもなり、捨てるところ
はなく、無駄になりません。

ヒツジの屠殺の後にも大事な行事が続きます。
一族の男たちが集まり、イードの挨拶を行います。
大切な親族との義理を欠かすわけには行きませんからアリさんも
当然出席します。
泊り客のうち男の私たちもゲストということでこれに招かれ、
一緒に出席させていただくことになりました。
日本で正月に新年の挨拶のために親戚回りをする様子を彷彿と
させます。

町中の会場ではひとりひとりと挨拶を交わした後にアラブ式の
コーヒーが振る舞われます。これには日本での祝い酒を思い出
させますが、もちろんここはアラブの国ですからお酒は出ません。
引き続き朝ご飯として米飯の食事が振る舞われ、その後は歓談。
私が手まねきで呼ばれた先の方は、サウジで仕事をしていたこと
もある薬剤師の方ということで、英語がしゃべれるので、片言の
アラビア語で失礼がないようにと神経を遣っていた私もとりあえず
ひと安心。

この間にも次から次へと訪問者が続くので、こちらもそのたびに
席を立って挨拶をすることになります。外国人の私たちは必ずしも
アラブ式の挨拶でなくても構わないのですが、親しみを表すために
向こうの方からアラブ式の頬をすり合わせる挨拶を求めて来る方も
いて大変。

ひとしきりご挨拶の後に退散し、再び家に戻るとお昼の用意。
お昼は新鮮なヒツジ肉を使ったヨルダンの代表的な料理の
”マンサフ”。

 

何を隠そう私はこの料理が大好きなのですが、日本人の知り合い
にこれを話すと怪訝な顔をされることが少なくないのです。
確かにヒツジ肉にチーズを溶かしこんだスープをかけて食べるこの
料理はヒツジ肉の臭いとミルク臭さの二重ですから、これらの臭いが
苦手な人にとっては拷問に近いことになります。しかし、家庭料理で
新鮮なこの料理を食べれば臭いが気になることはほとんどありません。

きょうのマンサフもミルクも肉も自家製でしかも新鮮そのものです
から実に美味。しかし、今回はヒツジの屠殺の模様から全ての過程を
見ているので、感慨深いものがあります。肉食は命をいただくこと、
頂いた命を粗末にしてはいけないことが、イードを通じての学びと
なりました。

命については最後にもうひとつ触れておかなくてはなりません。
朝の集会の場にひとりの男性の遺影が掲げられていました。
聞くともなく聞くと、2週間ほど前にイラクのバグダードに行き、
亡くなったのだと言います。
どのような事情でイラクに行き、殺されることになったのかまでは
その時には説明してもらえませんでしたが、後から聞くところに
よると、殺されたのではなく、自ら米兵を相手に死を選んだのだ
と言うことでした。
どのような思いを抱いてこの青年がイラクに向かったのか知る由も
ありませんが、治安が良くなって来たと言われるこの情勢の下でも
占領に抵抗するために隣国から出かけて自らの命を投げ出す人が
まだ居るのだという事実に粛然とならざるを得ません。

私には自爆攻撃を称揚する考えは毛頭ありませんし、遺影を掲げた
人々の思いも、この青年の死を悼む気持ちのためであると思いたい
のです。
しかし一方で、単純に自爆攻撃を野蛮だとして片付けることで、
顔を背けてそれで終わりにしたくないとも思います。そうでなければ、
命を捧げた犠牲の意味が無になってしまうでしょうから。
なぜそこまでしなくてはいけなかったのか。なぜそれを止められなかった
のか、占領が止めばそれが解決になるのか...
答えのない問いを関係者でもない私が続けていても仕方がないと
分かりつつ、それでも問いは続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

犠牲祭(Eid Al-Adha)@ヨルダン南部(1)

12月18日(火)

今年は暦の関係で、犠牲祭(12月18―22日)、クリスマス(12月25日)、
そして年末年始の休暇という訳で、祝祭のシーズンが続きます。
新年のお休みは日本と比べればこちらでは比較的質素に過ごしますが、
やはりこの間の一番の催しは19日からの犠牲祭(イード)でしょう。
(ヨルダンは前日の18日から準備のためにお休み。)
今年は知り合いの紹介で、イラク南部の町マアーンの郊外のご家庭に
お邪魔をして、このご家庭の皆さんとゲストの大勢でこの日を過ごす
ことになりました。


(アンマン旧市街の賑わいは日本の師走の買い出しを思わせる)

市内のバスターミナルに向かう途中にも犠牲に捧げるヒツジの売り場が
見かけられ、タクシードライバーはイードの意味を説明してくれます。。
神の定めで信仰を試され息子イスマイルを殺すように仰せつかった
イブラヒームがわが子を手に掛けようとしたその時に神のことばが
遣わされ、代わりにヒツジを犠牲に捧げることになった故事にちなんで
いること。ヒツジ肉は3つに分け、ひとつを自分に、もうひとつを親族や
知人に、もうひとつを貧者に分けあう習わしであること、などなど。
このドライバーは、最後にこう言って話を締めくくりました。
「私たちの全てが神のおかげで成り立っていることに感謝しなくては
 いけない。しかし、深い祈りを捧げなくてはならないとする堅苦しさ
 に縛られるのではなく、ほんの少しの祈りで良いのだ。」と。
出かける早々から味のあることばにうなづかされます。


(マアーンの街頭のヒツジ売り場。田舎の土地がらか、人々は皆さん
 アラブ民族服の着用率が高いのはさすが。)

ヨルダン南部の町マアーンは首都アンマンから乗合タクシーで2時間半、
バスで3時間くらいの距離。世界遺産で有名なぺトラ遺跡にも近く、
交通の拠点になっています。歴史的にはサウジからヨルダンの初代国王を
迎えた時に最初の拠点となったところで、確かに地理的にもサウジに近く、
文化的にも様々な影響を受けており、保守的な土地柄ではあります。
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007.12.18

再起動(長いお休み明け)

イードムバラク!
あるいはクルアーム・アントン・ビハイル!
(聞いた音で書いているのでアラビア語として正確でない向きはご容赦ください。)

イードのお祝いの言葉が交わされる季節になり、明日の休日を前に
既にアンマン市内は交通渋滞が激しくなっていました。

...と、言うわけで、ヨルダンは明日からイード・アル・アドハ(犠牲祭)の
お休みに入ります。
正確には18日は断食をして準備に入り、19日が犠牲祭の当日です。
イラクの知人曰く、スンニの犠牲祭は19日(水)で、シーアは21日(金)
なのだそうです。
日々の報道では宗派の違いは必要以上に強調されて伝えられがちなので、
私からは極力そうではない、現実に近い形でお伝えできればと思います。
この知人曰く、バグダッドの彼の地域では先週の金曜礼拝ではスンニの
人々もシーアのモスクに招かれて合同礼拝を行ったと言っていました。
それだけバグダッドの治安も良くなってきているということなのですが、
これが掃討作戦による軍事力による抑え込みの成果で、一時的なものに
過ぎないとする悲観的な見方を他のイラク人から聞かされたばかりなので、
まだまだ見きわめが必要する見解を私は捨てきれずにいます。


さて、このBlogの更新もかなり長い間、休んでいました。
今の仕事で8月にヨルダン入りしてから、ラマダンの季節も過ぎて、
次のイードの季節になってしまいました。
仕事上の関係で書くのを控えていたのではと勘繰る向きもあるかも知れま
せんが違います。
でも、結果的に仕事の契約期間中は余裕が無く、更新をさぼっていたと
いうことは言えます。
何とか新年を前にして復活を果たすことができましたが、このまま再び
休眠状態に入らず続けられればと思います。

とりあえず、久し振りのご挨拶まで。

12月17日
夜の寒さが厳しいアンマンの自宅アパートより

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年8月 | トップページ | 2008年1月 »