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2004.11.25

一時帰国します!

Amman11-25_edited.JPG
(写真はアンマンの空港にて出発前。
 一般的にはムスリムの女性は写真に撮られるのを嫌うと
 言われていますが、この皆さんには写真を撮って欲しいと
 せがまれました。こちらの人々は陽気なので、大好きに
 なりました。)

ラマダン明けとイードの祝日、この間にパレスチナのリーダーである
アラファト氏が亡くなるという大きな出来事がありました。
そしてファルージャをはじめとするイラク危機への緊急対応を
続けていました。
この間にBlogの更新がありませんでしたが、現場が修羅場の
間は後回しになっていたのだということでご了解下さい。
この間の情報提供はJVCのHP及び、佐藤真紀のBlog
通して行っていました。

この様に、今回は6月に当地に渡って以来、イラク支援を続けて
参りましたが、このほど26日に帰国の予定となりました。
日本には約1ヶ月の滞在予定です。

ファルージャをはじめとしてイラク国内の緊急支援を必要とする
今の情勢を考えると後ろ髪を引かれる思いです。
実際、帰らないでくれというバグダッドからの声もあって、
活動を認めてくれているのだと、大変嬉しく思いますが、
帰国して現状を日本の皆様にお伝えするのもまた大事な役割と
考え、帰国することにしました。
12月半ばまでの講演日程などは下記の通りですので、
会場でお目にかかれれば幸いです。
よろしくお願い致します。

11月26日 金 帰国  鎌田先生イラク医療支援講演会(東京)
11月28日 日     有事法制反対ピースアクション(名古屋)
http://www.jca.apc.org/~husen/antiyuzi.htm

12月 1日 水     和光大学シンポジウム    (東京)
12月 3日 金     佛教大学ボランティアセンター(京都)
12月 8日 水     12・8戦争と憲法を考える夕べ(東京)
http://www.kyodo-center.jp/oshirase/oshirase.htm#20041110_11119


12月15日 水     JVCイラク・パレスチナ報告会(東京)
http://www.ngo-jvc.net/


以上、乗り継ぎのフランクフルトにてアップしました。
空港内もクリスマスの装いです。
Frankfurt.JPG


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2004.11.11

ライラ・アルカドル

Yuyake.JPG

ファルージャとラマディの緊急救援に際して、支援物資の
現地調達に必要な資金をバグダッドの協力者に送金した。
普通の銀行送金という手もあるが、まだまだ現地の銀行も
うまく機能していなかったり、銀行に行くこと自体が
治安上危ないという事情もあって、手っ取り早い方法として
送金業者を使う。
この送金業者(マネートレーダー)というのは、貴金属業など、
普通にビジネスを営んでいる金持ちのイラク人業者が、
イラク国内、国外双方に連絡拠点を持っていて、例えば
ヨルダンから送金する場合は、そういう業者のところに
現金を持ち込むと、電話一本でバグダッドなどイラク国内に
連絡してくれる。お金を受け取る方は、提携先の拠点に足を
運んでその場で現金を受け取る仕組みだ。
この手続きをするところはさすがに英語が通じない、地元の
アラビア語の世界になるので、知人に同行してもらって
助けてもらう。

さて、手続きを終わった後の知人がやけに眠たそうにして
いるので、事情を聞くと、昨晩11月9日の夜(ラマダン
26日目)は特別な日で一晩中祈りを捧げていたのだという。
後から調べると、この日の夜は「ライラ・アルカドル」と呼ぶ
特別な日で、預言者ムハマドがイスラムの聖典クルアン
(コーラン)を授かった日としてイスラム教徒が最も
大切にする日だった。

それにしてもよりによってそういう日にファルージャを総攻撃
するとは、いかにも無神経過ぎる。敢えてこの時期を選んだ
のだとすれば、初めから宗教対立に持ち込むことを狙っての
ことかと疑いたくなる。

最も平和を尊ぶこの季節のこの日によりによって...

(ファルージャに第一波の攻撃の始まった7日の夕方。
 アンマンは素晴らしい夕焼け空だった)

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ラマダン中の楽しみ

MoonStar2.JPG

ラマダンと言えば、断食月と日本語で書くこともあり、
断食をすることが知られていると思う。
確かに日の出から日の入りまでの間は水も含めて一切飲食物は
口にしない。ヘビースモーカーの知人も必死に禁煙をしている。
そんな彼も日没後の最初の一服がうまいなどと負け惜しみを
言っている。
そう、日没後は盛大に断食明けを祝って飲み食いをする。
普段は外食好きのヨルダン人も、この時期はこの断食明けの夕飯
(イフタール)を家庭料理で楽しむことを大切にしている。
だから食材の販売も増えるし、市場も売り上げが伸びるという。
確かに良く見ると、食料品店はおせち料理の食材を買い求める
日本の師走の賑わいに似ている。
日本でもクリスマスシーズンになると、街中のあちこちにツリーを
見かけるようになるが、こちらでは月と星を模ったラマダンの
電飾を一般家庭の玄関先や商店の店先でよく見かける。

そしてラマダン特有といえばこのお菓子、カターイエフだ。
小型のホットケーキの様な状態の素材をあちこちで売っている。
それを買ってきて、家庭でナッツやチーズを巻いて揚げ菓子に
して仕上げる。
K-1.JPG

K-2.JPG

そして、この甘い飲み物はデーツ椰子の実が材料と聞く。
普段は立ち飲みのジュース屋さんでは、ラマダン中は日中の
飲食が禁止なので、これをお持ち帰り用のビニール袋に
入れて売っていたりする。
Vimto.JPG

ラマダンの風景を見ていると日本の年の瀬を思い出して
帰りたくなる気持ちになったりすることもある。

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2004.11.10

ファルージャの痛みを知ろう

11月8日

ファルージャ総攻撃の模様を伝えるTVニュースを
付けっ放しにしつつ、バグダッドの知人に電話をかけ、
救援の相談をする。最初に病院を攻撃するなど、余りの
理不尽さに話しをしていてもこちらが熱くなってしまうが、
むしろイラク人の彼の冷静さに救われる思いがする。

11月9日

4-5月のファルージャ危機の際にも緊急救援で
協力関係にあったイタリアのNGO“Inter-SOS”の
メンバーと打ち合わせた。
この時に結成された地元のボランティア組織で、
現場で実際に食糧や薬品の配給に尽力したFAAこと
Fallujah Aid Association(ファルージャ救援協会)の
メンバーも今回は一緒。
彼らにしてみれば、この一大事の時にアンマンに居る
場合ではなく、一刻も早く現地に戻って家族の安否を
確かめたいところだと想像するが、昨日からイラクと
ヨルダンやシリアの国境が閉鎖されているので、
戻りたくても戻れないのだ。心中察するに余りある。
ひとりは80年代に日本の東洋綿花(トーメン?)と
一緒の仕事を経験していて、当時ファルージャに
穀物の冷蔵倉庫が作られたのだと言う。
「日本人とも喧嘩をしたが、その分、仲も良くなった。
日本人の計画性のある仕事振りに学んだ。実際に
計画期間よりも早くプロジェクトが完了した。」
などと言ってそのその昔を懐かしがってくれる。
ここにも日本の80年代までのイラクとの付き合いの
プラスの遺産が残っているのが嬉しい。

4月の緊急救援の経験以来、地元の病院に出入りする
時間も長くなって、「医師でもないのにドクターと
呼ばれるんだ」と照れ笑いをする彼は、現地の病院の
事情を良く知るひとりだ。
その彼が言う。「昨日来の報道で、病院で武装勢力を
37名殺害したと“戦果”を報じているが、捕らえられて
いたファルージャ総合病院の人々は100%民間人で、
武装勢力ではない。皆、知り合いの医師や病院のスタッフ
たちだ。医師が捕らえられるか殺されてしまうと
負傷者を手当てする人がいなくなる。どうするつもりだ。」と。

何とその彼は今回の戦闘で甥が亡くなり、市の中心部近くの
病院を守って居残った息子が行方不明なのだと言う。

かける言葉に困っていると、やけに冷静に言葉を続けて
「今回の戦闘は米軍の勝利で終わるかも知れない。でも
米軍は地獄の扉を空けてしまったことを後で思い知る
ことになるだろう。私たちは必ず報復する。私たちは
舐めた辛酸を決して忘れないから。」と言う。

暴力に暴力で応じることの空疎なことは言うまでも無い。
しかし、私たちは彼の言葉に答えられる言葉を持っている
だろうか。今のファルージャの痛みを知らずして、答える
言葉は持ち合わせていない。

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2004.11.09

「大本営発表」に物申す

ファルージャ攻撃の初日の模様を見聞きするにつけても
怒りが覚めやらず、どうしても書いておきたいので、
長文になりますが、書いておきます。
あくまでも個人的な見解です。

<ファルージャ攻撃初日の「大本営発表」ぶりに想う>

米軍は11月7日までにファルージャ周辺に
約1万人の部隊を配置して包囲網を敷き、住民に
避難を呼びかけました。
そしてイラク暫定政府は7日に北部クルド地域を除く
イラク全土に60日間の非常事態宣言を発令しました。

この辺から、総攻撃を始めるつもりだという感覚が
確信に近くなりましたが、8日朝になってから
「米軍がファルージャ突入、病院と橋を占拠」
http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200411080102.html
という報道から、作戦が始まったことを知りました。

この報道、そしてBBCの衛星版国際ニュースの報道ぶり
などを見て、その大本営発表ぶりに怒りを感じています。

BBCは英国の放送局ということもあり、イラク南部から
移動してイラク中心部に再投入されたイギリス軍部隊
”ブラックウオッチ”への同行取材をしばらく前から
進めており、ファルージャ東部に設けた拠点のキャンプ
ドッグウッドからの中継も数日前から始めていました。
イギリス軍部隊もファルージャ攻撃に備えて、市内に
拠点を置くと言われている武装勢力と東部バグダッド方面
との間の補給路を遮断する任務に就いていました。
(なお、10月27日から30日限定として投入された
 同部隊にも既に死傷者が出ています。
 11月4日に3名死亡、7日に1名死亡。)
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/3994027.stm

そして、引用した「病院と橋を占拠」の記事でも、
米軍とイラク軍の合同部隊に同行取材した記者の
テレビ映像が使われています。

これらの基地や部隊への同行取材の報道は、
「攻める側の視点」で描かれていて、
「攻められる側」は反米武装勢力の一味とされています。
そして作戦の模様は陣取りゲームの様に描かれています。

しかし、現実はどうなのでしょうか。
最近数日の模様は確認が難しいのですが、現地に
スタッフを置くNGOの調べでも、11月2日の時点でまだ
1万家族がファルージャ市内に留まっていたという報告も
あります。イラクは大家族なので、1家族当たりの人数を
平均して6-7名として計算してみると、人口にして
6-7万人はまだ残っていることになります。これらは
主に非武装の一般市民、住民ということです。

米軍は、攻撃前に避難を呼びかけていましたから、
それでも残っている人々は武装勢力と言うのでしょうが、
しかし、一般市民もそう簡単に避難できる人々ばかりでは
ありません。
もともとが自分の家に住み、生活もあった人々であれば、
そこを離れて難民化するのを潔しとしない感覚があります。
また、非常時だとして避難するにしても、身寄りが無い
状態で、避難する先の無い人々もいます。
実際にそういう人々が残っていたと聞いています。

最初の攻撃で、武装勢力の支配下にあったファルージャの
一角を奪回したとの触れ込みで病院占拠の模様が伝えられて
いますが、これも疑問です。
病院はもともとユーフラテス河の西岸にあって、街の
中心部と隔てられており、4月の戦闘の際にも、橋と病院の
近辺を米軍が占拠したため、負傷者が病院で手当てを
受けることができなかったということがあります。

もともと街の外側にある一角で、しかも戦時にあっても
負傷者の保護という人道主義的な観点からは中立で
あるべきところに攻撃を加えて、これを占拠したとして
陣取りゲームの様に「戦果」として報道するのは
正に大本営発表でなくて何でしょうか。

既に数日前の攻撃で市内の別の病院が破壊されて
いますから、今後市街戦で負傷者が出ても、
野戦病院を設けるか、もしくは現場から運び出さない
限りは負傷者の本格的な手当てはできなくなります。
敵勢力の負傷者は残らず殺してしまえば良いという
発想なのでしょうか。
4月のファルージャ危機の際にも、そしてそれに
引き続くシーア派蜂起をきっかけとするナジャフの
危機の際にも、いずれも現地の総合病院は軍隊によって
占拠されるか、もしくは近接するところに狙撃手が
配置され、患者が治療を受けられなかったと聞いています。
これは人道に反する行いだとして、現場を知るNGOなどは
非難していました。

病院も抵抗勢力の支配下にあって反米宣伝に加担して
いたので、これを奪回したとの報道もありました。
しかし、今回「奪回」したという総合病院はもともと
イラク保健省の傘下にあります。これらの病院の報告が
反米宣伝であると言うのであれば、イラク暫定政府の
信頼性を疑うと言うことにもなりかねず、攻撃には
イラク政府側の国軍兵士も加わっていることを考えると
矛盾が生じます。

ここでもう一度ファルージャ攻撃の「大義」も考え直して
欲しいとつくづく思います。
もともと、当のイラク人スンニ派の人々の中にも、
「スンニ・トライアングル」などという概念は存在しません。
2003年4月に米軍が学校占拠に反対する住民のデモに対して
発砲して犠牲者を出したことがファルージャで反米の機運が
高まるきっかけとなりました。しかしそれ以前からそこが
反米武装勢力の拠点であった明確な証拠はあるのでしょうか。
米軍の占領政策の誤りで、反米武装勢力の象徴を作り出して
おきながら、それを攻撃するのは正に自作自演ではない
でしょうか。
ザルカウィ一派がファルージャを拠点としている根拠も
必ずしも明確ではありません。ザルカウィの存在自体が
攻撃をする側が作り出した幻想という可能性も捨て切れません。
たとえ根拠があったとしても、総攻撃を加えて全てを
破壊し尽くしてしまうと、そうした根拠を証明することも
できなくなります。

大義の無い戦争であったイラク戦争の誤りをもう一度
繰り返すことで、犠牲者を出すのを止めて欲しいと思います。

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囚われのファルージャ

イラクでは米軍を中心とする多国籍軍とイラク国軍の合同作戦で
ファルージャ「奪回」に向けての総攻撃が始まりました。
これに先駆けて、バグダッド在住の知人から届いたメッセージを
翻訳して紹介していますが、大きな反響を頂いています。

私がファルージャの叫びに応えてできることは、
現地への緊急支援活動をいくらかでも続けることです。
何とかして、戦闘が拡大して犠牲者が出るのを防がなくてはならず、
対処療法となることに口惜しさはあるのですが。

このイラク市民からのメッセージにご関心のある方は
TUP速報
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/430
での千早さん訳も合わせてお読み頂ければ幸いです。

              Kidnapping of Faluja

Every Body, every thing is kidnapped in Faluja, Women, Children, families, history humanity and peace. And the world is only watching, how the US army will kill civilian, and what military plane will be used. What weapons will be tested in Faluja. The world is become just dead body has no feelings, and no any reaction.
Do you know what Faluja mean, it mean every city in this world. It means Hiroshima, Kabul. Faluja means the black future of humanity and the killing by the name of democratic and peace. Faluja isn’t belonging to Faluja people only; it is the symbol for today’s world. The big fish eat the small one.
Keep client and your city will be the next, and your history will be the next. Keep watching how the new technology can very easily kill the innocent kids and week people. Then the next will be you.
Every body with negative stance from today’s crime, he will be partner in this crime, in front of history and humanity. Nobody will excuse the cowards or the scared. It is as Shakespeare said “TO BE OR NOT TO BE “
Faluja not expecting cry from us, Faluja need strong shriek…..to make all consciences wake up.

              囚われのファルージャ 

誰もが、全てのものがファルージャで囚われの身に
なっている。
女性、子ども、家族、歴史、人間性、そして平和が。そして世界は
米陸軍部隊が市民を殺す様子、どんな軍用機が使われるのか、
どんな兵器がファルージャで試されるのかをただ見ているだけだ。
世界は死に体になっていて、いなかる感情も、反応も示さない。

あなたはファルージャが意味するものを知っていますか?
それはこの世界のどの都市にも当てはまることです。それは
ヒロシマであり、カブールであり、ファルージャは人間性の漆黒の将来
‐民主制と平和の名のもとに行われる殺戮を意味します。
ファルージャはファルージャの人々のもとにあるものを意味する
だけではありません。ファルージャはこんにちの世界のシンボル
なのです。大魚が小魚を食べてしまうような世界の。

沈黙を保っていると、あなた方の街が、あなた方の
歴史が次の番です。いかにして最新の技術が容易に無実の
子どもたちや脆弱な人々を殺せるのかを見続けなさい。
そして次はあなた方の番です。

誰でも、きょうの犯罪に否定的な立場を取る人々が、
歴史と人間性の前に照らして、(あすには)この犯罪に手を貸す者に
なるのです。誰も臆病さやおびえを免罪にはしないのです。
それが、シェイクスピアの言うところの
「なすべきか、なさざるべきか」という問題なのです。

ファルージャはわれわれの嘆きを期待していません。
ファルージャはすべての良心を呼び覚ますような強い叫びを
必要としているのです。

(邦訳: 原 文次郎)

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2004.11.07

世界遺産を見に行く(Qasr Amra)

<Qasr Amra>

Amra.JPG

11月5日(金)
ヨルダン在住の日本人NGO仲間の誘いを受け、金曜祝日を
利用して、アンマンから東部の町、Azraq近郊にある
世界遺産のアムラ城を見に行った。
Azraqの町はヨルダンの首都アンマンから103km東部にあり、
イラクへの経路の途中にあるので、今年の初めまで、
アンマンからバグダッドまでの陸路での移動が可能だった
時期には良く通ったところで、なじみがある場所になる。
しかし、いつもは通り過ぎているので、遺跡の見学を
目的として訪れるのは楽しみだった。

昼前にアンマン市内を出る。イラク方面のバスやタクシーの
出発点でもあるマハッタの近くを抜けて、幹線道路を
いったん北東に向かい30km。
小一時間もしないうちに、人口80万人ほどの町、Zarqaに着く。
街中のバスターミナルも人々で賑わっている。いたって
普通の町なのだが、今はここの出身者の名前を挙げた方が
わかり易いと思う。
そう、ここは今はヨルダン人テロリストとして有名な
アブムサブ・ザルカウィ(本名、アフマド・アルハイララ)
の出身地なのだ。
詳しい説明は新聞記者の現地レポートに譲るが、
地元では悪い評判はなく、好青年であったらしい。
ザルカウィ一派の仕業と言われる香田さん殺害事件から
それほど時間が経っておらず、また、NGOの現地責任者で
人質になっている、英国籍のマーガレット・ハッサンさんが
同種のグループに身柄が引き渡されるという話が伝わって
いる折だけに、この地を訪れても複雑な心境になる。

<Zarqaの街の入り口のモニュメント>
Zarqa.JPG

Zarqaの町を離れて道を一路東に向かう。町の郊外には
ヨルダン軍の軍事施設がある。気をつけて見ると、
ここに限らず郊外に出て砂漠の中を走っていると、
ヨルダン軍の施設が郊外の土地を占めているケースが
結構あるのに気がつく。
(この日、遺跡のある街のAzraqからアンマンへの帰途には、
幹線道路の一部が臨時に飛行機の離着陸用の滑走路として
使える造りになっているところもあった。)

ヨルダンは親米路線を取り、対テロ戦争にも事実上
参加している状態にあるが、そのために使われる
軍事施設の一部がザルカウィ氏の出身地の近くにも
あるというのは皮肉なことだ。

また、Zarqaからイラク方面に向かう街道沿いには
工業団地や石油の輸送基地があり、ここを出入りする
石油の輸送タンク車が多いのが目に付く。
最近の様子は再度確認する必要があるが、サダム政権
時代には、ヨルダンは石油供給の多くをイラクからの
輸入に頼っていたので、そういう事情もあるかと思う。

<道路沿いの看板。空の色も印象的>
Kanban.JPG

さて、肝心の遺跡のある街、Azraqは砂漠の中の
オアシスで、ここにある湿地帯は中東随一の規模で
あったと聞く、しかし、アンマンなど都市の水源と
して使われた結果、過去30年の間に水位が下がり、
現在はほとんど枯れてしまっている。
街にある野生生物の保護センターを訪れてそういう
説明を聞き、自然と共生する人間の活動の難しさを
痛感する。
中東は石油資源の奪い合いの政争の地と言われて
いるが、地球規模で言えば、21世紀は水資源も
また奪い合いの対象になる。
実際、パレスチナとイスラエルの問題も、ヨルダン川
西岸地区では、実は水源を巡っての争いという面も
あると聞いているので、そういう点でも水資源問題に
注目しておく必要はあるかと思う。

遺跡の訪問記を書こうとしても、ついつい中東問題に
ついての話になってしまった。
世界遺産に登録されているアムラ城(Qasr Amra)は、
砂漠の真ん中にある。
6世紀に隊商宿として建てられたそうで、井戸や
浴場も残っていて再建されている。
内部の壁画も、剥げ落ちたりしているものの、
評判通りの美しさだった。

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2004.11.04

イラクの知人からの「おわびのことば」

人質殺害という最悪の結果に至ったこのたびの
日本人人質事件には大きな衝撃を受けました。

バグダッドでは、9月にイタリアNGO職員の誘拐事件が
起き、イラクで働くNGO関係者に衝撃を与えました。
幸いにもこの事件では人質は解放されましたが、
その後もイラク・英国の二重国籍で長年イラクに住み、
人道支援に貢献して来たNGO現地代表のマーガレット・
ハッサンさんの誘拐事件が起き、誘拐事件の深刻さが
改めて浮き彫りになりました。
その様な中で、今度は日本人が被害になる事件が起きて
しまった訳です。

最新のニュースによると、マーガレットさんも香田さん殺害に
関与したと思われる最強硬派グループに身柄が引き渡される
恐れがあると報じられていますから、安否が案じられるところです。

この様な事件の衝撃も覚めやらない31日にバグダッドの知人から
「陳謝」と題したメールを受け取りました。
このメールは、イラクの一般市民の思いを代表して、今回の
日本人人質殺害事件に対する遺憾の意とおわびの気持ちを伝える
もので、こうした温かい言葉には大いに救われる思いがしました。

このメールの発信人の氏名と所属は本人の意向により
非公開として、「イラク市民からの便り」としてご紹介
させて頂きます。

氏名を非公開にするのも理由があります。
少数派とはいえ、対話の方法として他の手段を持たずに、
暴力的な手段に訴える事を支持するイラク人も居るのが事実で、
こうした人々による予想外の反応を避けるためにも、
たとえ職場の同僚の前でも気軽にこうした意見を述べることが
できない環境にあるので勘弁して欲しいということなのです。
なかなか自由に物が言えない環境の中でこうした言葉を
寄せてくれたイラクの知人の思いをどうぞお汲み取りください。

*最初の段階で、Apologyを「謝罪」と訳しましたが、
 意味が強過ぎるので、「おわび」と訳し直しました。
 (11月6日修正)


-イラク市民からの便り-

【日本語訳】

<陳謝> 2004年10月31日

イラクの人々を代表して私たちはこのたびの日本人の
人質に起きたことに対しておわびと遺憾の意を表します。
この様な犯罪者は私たち(イラク人)を代表する者では
なく、ほとんどが旧政権の支持者や宗教的な過激派に
支持されるイラク人以外の者で、人道に関する原理
原則をねじ曲げる者です。
私たちはいつもこれらの者が(イラクの)国民的な
英雄などではなく、イラクの人々を殺す犯罪者であり、
彼らが(彼らの支持する)独裁者とその取り巻きの
堕落したギャングによってこの国を占領へと引きずり
込んだことに責任を負っていると信じています。
どうか私たちのおわびの気持ちを寛大な心で受け止めて
ください。


【英語の原文(一部改行を変えています)】

----- Original Message -----
From:
To: bunjiro hara
Sent: Sunday, October 31, 2004
Subject: apology

Dear Bunjiro,
On behalf of Iraqi people, we would like to apologize and
condemn what happened to the Japanese hostage,
those criminals don't represent us and most of them
are non Iraqi supported by the previous regime followers
and religious extremists who distorted the human kind
principles and rules.
We always believe that those are not national heroes
but criminals killing Iraqi people and they're responsible
for dragging the country to occupation by their dictator
and his corrupted gangs.
Please accept our apology with our regards for your
kind cooperation.

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日本人人質事件について

アンマン時間10月26日の晩に、「日本人がまた人質になった
様だけれど何か知っていますか?」というイラク人の知人からの
メールで、初めて事件のことを知ってから、10月31日の朝に
「遺体発見」の報が入るまで、振り返って見ればわずか一週間にも
満たない期間でしたが、この時間の経過をひどく長く感じました。
現場に近いところに居ながら、役に立てない苛立ちと、最悪の
結果に衝撃を受けているところです。

この事件に関して思うところを言葉にして綴ることが出来るように
なるまで、更に数日を必要としました。

香田さんは面識はありませんでしたが、アンマンのホテル関係者を
通じて、バスに乗ってイラクに出かけた日本人旅行者がいるという
話を出発後に耳にしました。
その時点で何かできなかったのかと今でも繰り返し考えますが、
既に彼は出発後であり、大使館への通報など、できることは
ホテルの従業員などの直接の関係者が済ませていましたから、
私は無事にアンマンに戻って来ることを祈ることしかできません
でした。

その時点で外国人がイラクに居ることが危険なことは良くわかって
いました。
日本政府がイラク戦争を支持していること、人道復興支援が名目
とは言え、武装している組織である自衛隊を派遣していることは
イラク人にも知られていましたから、日本人であることが、
敵対勢力にとって意味を持つこともわかっていました。
しかし、実際に事件になって、嫌な予感が現実になってみると
その衝撃は想像以上のものがありました。
香田さんがイラクに行くに至った動機は、間接的な話しか
ありませんから、論評するには材料が不十分です。また、
現地の状況を良く知らずに準備不足で出かけたことなどを
指して「軽率」とする論評があるのも知っています。
確かに聞く限りの話では「軽率」という批判を受けても
仕方が無いと私も思います。
しかし、これらの批判は、彼が無事に戻って来てから、
本人の口から事情を聞いて判断すべきことであったと
思います。
それまでは、何とかして救出に向けてのあらゆる手立てを
講じるのが先決でしたが、その前に彼の行動についての
批判が高まったのを日本からの情報で聞くのは苦痛でした。

何とかして彼を救いたい。そういう願いを込めた日本の
市民団体の動きに呼応して、私もヨルダンの新聞社に
記事の掲載を求めてご家族からのメッセージなどの材料を
持ち込み、一部は掲載されました。
(写真は29日付けAl-Rai紙の第9面に掲載された記事
(意見広告扱い)
 【表紙】
front_page.JPG

 【9面】
page_nine.JPG

 【記事】
Article.JPG

こうした、彼の解放に向けたメッセージでは、自衛隊
関係者でないことを強調していますが、私の考えるところ
では、当初発表された犯行ビデオの内容から判断すると、
彼は自衛隊関係者であるなしに関わり無く、日本人で
あるということが敵意の対象となり、人質としての価値を
持ったと思われます。

もちろん、これほどまでに日本人に対して危害が加えられる
様になった原因として自衛隊の派遣が関係していることは、
犯人の要求を引き合いに出すまでもなく、かなりの関連が
あると思います。

小泉首相は、テロに屈しないとして、交渉の早期の段階から
自衛隊の撤退はあり得ないと明言しました。
しかし、解放交渉の進め方として、交渉の余地を残しておく
べきであったと思います。
米英にしても、表面上はテロに屈しないとは言いながら、
裏で交渉を進めるのは良くあることです。犯行グループが
強硬派であって、交渉の余地が最初から少なかったのも
事実ですが、しかし、もっとうまい交渉のやり方はなかった
ものかと思います。

自衛隊にはサマワの宿営地への迫撃砲などによる攻撃も
続いていると聞きます。また、大儀のないイラク戦争を支持し、
米英軍を主力とする多国籍軍による治安維持体制に協力する
ことは、直接戦闘行為に参加しないとは言え、援助の中立性に
反します。
そういう意味で、自衛隊は早期に撤退することが望ましく、
少なくとも12月14日の派遣期限を延長せずに見直すべき
だと考えます。

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