« 2004年8月 | トップページ | 2004年10月 »

2004.09.29

9月14~21日レバノン訪問記

over_beirut.JPG
(ベイルート上空から南レバノン方向を望む
遠くに見える高原がシリアとの国境線。
ここがかつて紛争の舞台となった。)

9月14日から21日までの間にレバノンを訪問していました。

日付が遡りますが、22日付けでレバノン訪問記を掲載しました
ので、ご覧頂ければ幸いです。
現在のイラクの混沌とした治安状況について見聞きするに
つけても、また中東の現在に至るもうひとつの問題である
パレスチナ問題を考える上でもレバノン内戦の歴史は
外せないテーマであろうかと思います。

下の写真は9月28日、アンマンの満月。
この日、中国は中秋節で名月を愛でる日。
この日の晩に、誘拐されていたイタリアNGO職員が
解放されたのも不思議な偶然?
そして、この日はパレスチナでは2000年のアル・アクサ・
インティファーダから4年目に当たる日でした。
当然のようにこの日の新聞はこの4年間のパレスチナとイスラエルの
衝突の模様を振り返っていますが、双方の問題を取り上げながら、
「イスラエルが(現実的な)出口戦略を見出すことができれば、
パレスチナ人も先を争って、それ(出口)に向かうだろう。」と結んだ
当日の新聞記事が印象的でした。
Amman0928.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イタリアNGO職員解放を祝う

第一報を先に書き置いておきましたが、イタリアNGO職員が
解放されました。
続報によるとイラク人ローカルスタッフ2名も無事に解放されたと
聞き安心しています。

イタリア人2名はイタリア赤十字(イラク赤新月社ではなかった)の
保護のもとにあって、今晩中にイタリアに移動するとも聞いて
います。
今回は外国人を、しかもその事務所まで訪ねて誘拐するという
ことで話題になりましたが、しかし、一方で米軍が普通のイラク
市民の家を訪ねて連行し、家族のもとに中々帰してもらえないと
言うようなことは日常の様に起きていることにも思いを寄せないと
いけないでしょう。

このように、今もなお家族が捕らえられているイラク人の思いも
心に留める必要がありますし、フランス人をはじめとして今なお
囚われの身の外国人のことにも思いを馳せる必要があろうかと
思います。
そう思うと浮かれている場合ではないのですが、同じく人道支援に
従事する仲間としての思いを伝えたいので、今晩のアンマンの
NGO仲間の様子をレポートします。

解放の報道が舞い込んだのはアンマンでは19時台ですが、
その後21時半から急遽NGO仲間の祝賀会が開かれました。
これに参加する直前にお祝いのメールを送ったのですが、
その宛先のInter-SOS(女性イラク人スタッフが今回誘拐された)の
イラク現地代表に祝賀会の会場で会いました。
UPP(バクダッドの架け橋)のメンバーも来ていました。
祝賀会ではUPPのメンバーが解放を願って作った花飾りが
配られました。同じものがイタリアでも沢山作られたそうです。
現在アンマンに居るNGOメンバーのほとんどが集まったのでは
ないでしょうか、最大で40名以上は確実にいたと思います。
これだけ揃ったので詳しいいきさつを聞く余裕がありません
でしたが、Inter-SOSの代表に直接お祝いの言葉を伝える
ことができました。
二人のシモーナに宛ててのお祝いのカードも回覧されていました。
本当にNGOメンバーは心からこの日を喜んでいました。
私ももちろんこの日の出来事を喜ばしく思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イタリアNGO職員解放(第一報速報)

イタリアNGO職員の誘拐事件について続報をアップしたばかりの
ところで、BBCの英語ニュースを見ている私の目にバグダッド時間
28日20:10の報道で、(アンマン19:10、日本時間29日1:10)
2名のイタリア人が解放されたとの速報が入った。
何でも赤新月社に身柄が渡され元気であるという。
イラク人2名のことが気になるが、とりあえず吉報ということで
詳細を待ちたい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

イタリアNGO職員誘拐事件(続報)

イタリアNGO職員誘拐事件(続報)

この事件、既に3週間が経ち、依然として誘拐された4名に
関する情報が少なく、その安否が心配される。
(どうしてもイタリア人2名が注目されるが、
 私としてはイラク人スタッフも2名も同様に心配だ。)

この事件を受けて、案の定「NGO一時撤退」と報道された。
共同通信の電話取材に対しては、あくまでも一時退避と
いうことはあってもそれが必ずしも活動を停止しての
全面撤退につながるとは限らないと話した。
記事には次の様に出たがこれで真意は伝わっているだろうか。

 アンマン滞在中の日本国際ボランティアセンター(JVC)の
 原文次郎さんは「安全のため外国人スタッフが一時的に
 国外に出ることはやむを得ないと思うが、NGOがイラクで
 全面的に活動を停止することにはならない」と話している。

NGO職員誘拐事件に関しては、その後、WEB上に犯行声明を
出したグループが2通りあり、また最近には殺害を実行した
とする声明が掲載されているが、いずれも信憑性は乏しい。
逐一こういう情報をここでお伝えしても良かったのだが、
一喜一憂して右往左往しても仕方がないのでそのままに
しているうちに3週間が経ってしまった。

その後、米国人2名、英国人1名の誘拐事件が発生し、
米国人は殺害されるなどの動きがあったが、どうも
犯人グループはこれらの実行犯とは異なるようだ。

昨日からは、今度は、人質はまだ生きているとする
ヨルダン国王の発言が伝えられたり、クウェートの
新聞が身代金の支払いで犯人グループと合意している
との観測記事を出し始めているが、いずれも見極めが
必要だ。

犯人像については陰謀説も含め複数の説があると聞く。
いずれにせよ、確かな情報がないところで軽率に判断は
できず、人質の解放を訴える有効な手段がない。
焦る気持ちを抑えつつ、祈る思いで推移を見守る日々が
続く。

高遠さんも日本から再びアンマンへ来られる途中で
イタリアに寄っていると聞く。今回のケースは4月の
日本人人質事件のケースとは動機も犯行形態も異なると
思われるが、前のケースが少しでも役に立てるのであれば
役に立ってもらいたいと願っている。

(写真は人質事件の深刻化を伝えるヨルダンタイムズ紙24日版)
hostage_case.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.22

レバノン訪問記(3)南レバノンを訪問(パレスチナを望む)

南レバノン(パレスチナ(=現イスラエル)国境地域)訪問(9月20日)

地元レバノンの団体The Consultative Center for Studies
& Documentationの招待で国際戦略会議参加者が
南レバノン訪問のオプションツアーに参加。
これに同行させてもらった。
    
まず、バスでベイルートより海岸線沿いに南下、
1時間半ほどでビーチも美しいサイダの町に到着。
SL-Beach.JPG

休息の後、バスは海岸線を離れて山間の道に入る。
更に1時間ほどで旧イスラエル占領地域の最前線に入り、
元のイスラエルの監視所が山頂にあるのが目に入る。
(レバノンで6番目に大きな都市だと言うナバティ市付近)
ここから先はまだレバノン国内だが、ヒズボラの支配の
強い地域で、彼らの言う「解放された土地(Liberated Area)」
に入ることになる。

SL-River.JPG
川が見えるが、そこもかつて領有権を争ってヒズボラら
パレスチナ解放組織とイスラエル軍が激しい戦闘を
繰り広げた場所であるという。
かつてのイスラエル、現在はレバノン側のチェックポイントを
越えると視界が開けた。その先が現在の国境線で、遥かに望む
高原はパレスチナ(現イスラエル)の土地であるという。
オリーブの木も植えられており、肥沃な耕作地に見える。
イスラエル入植地であると説明を受けた町並みを遠めに
見ながら迂回すると、レバノン側でも立派な家の立ち並ぶ
地域に入る。
解説によると、もともとの南レバノンの住民は貧しかったが、
戦闘を避けて南アなどに移民した後に、移民先でお金持ちに
なって戻って来た者の家だと言う。
  
これらの家並みを通り過ぎた先にキアム(Al-Khiam)の町が
あった。この町の地域開発国際NGOの支援が入っている様で、
ECHOとPU(仏NGOでイラクでも活躍)のマークの入った
看板を見かける。
キアムのイスラエルによるパレスチナ人強制収容所跡
(収容所Detention Campという表示と、そのものズバリ刑務所
 Prisonという表示の両方があった)の訪問が今回の一応の
目玉のようだ。
SL-DCG.JPG
  
収容所跡の入り口横には休息所が設けられ、そこからパレスチナ
方面の見晴らしも良い。持っていた携帯電話はイスラエルの
電波を拾い、「ようこそイスラエルへ」のメッセージが出た。
SL-OV.JPG

収容所跡は見学用に整備されており、倉庫に使われていた
入り口の部屋でイスラエルがいかにパレスチナ人収容者に
残虐な行為を行ったかをまず映画で見せられる。
これを見た後に順次収容棟の部屋を見る。
外光の入らない狭い部屋、電気ショック用の配線の入った部屋、
等々、説明を聞き頭が痛くなる。

光の入らない収容部屋、個室の懲罰房、運動は一週間に限られた
時間だけ空しか見えないところでしかできない、食事は最低限で
医療は収容者の体調より収容する側の事情が優先、等々、
あからさまな拷問の話を除けばどこかで聞いた様な話ではないか。
そう、今の日本でも行われていることなのだと言ったら驚かれる
方も少なくないだろう。人権上問題なので改善を求めたい。
法務省出入国管理センターでは、不法滞在であるとして強制退去
処分の対象になった外国人を「収容」しているのだが、その収容の
実態がこれらの話に近いのだ。
筆者も参加している「難民受け入れのあり方を考えるネットワーク」にて、難民であるとして保護を求めながら主張を認められず、
不法滞在だとして収容されている人々を訪ねて実際にセンターで
面会をして複数の人々から聞いた話なので確かだろう。

SL-DCC.JPG
さて、話を南レバノンのパレスチナ人収容所に戻したい。
この収容所に11年間収容されていたという生き残りのアリさん
(40歳)が自身の体験を語り、ガザ出身のパレスチナ人で
ベイルート国際会議参加者のジャベールさんがこれを英語に
通訳してくれた。

話を聞いて、パレスチナ人の会議参加者で、ご主人が西岸で
今もイスラエルの刑務所に入れられているという女性が
泣き出してしまった。(名前は匿名にしておきます)
彼女は2年間に一度しか面会が許されたことがなく、
今度いつ会えるかもわからないという。
彼女にとっては、この収容所でかつて起きていたことは
現在進行形の出来事なのだと気づかされる。

同行の参加者の中にはイラク人もいて、彼らもこの収容所の
話はバグダッド西部のアブグレイブ収容所で起きている
ことと同じだと言ってうなづいていた。
イスラエルによる収容所と今のイラクの収容所の話も
たまたま同じだと言うことでは済まされないだろう。
イラクの占領統治に際して米軍は捕虜の扱いなどを
イスラエルから学んでいるとも言われているからだ。
   
収容所を見学の後は、帰途はキアムの町を出て更に
イスラエル側に向かう。
バスの中からは国境線が見えないが、イスラエル入植地と
イスラエルの工場だという建物がすぐ近くに見える。
いったん、入植地の住宅地を見晴らす丘の上に出てから
少し回り込んだ先に国境線はあった。
電流が流れているというフェンスとコンクリートパネルが
並んでいるのですぐにそれとわかる。

SL-BL01.JPG

フェンスの側まで行くと、入植地はパネルの向こう側に
なって隠れてしまう。話に聞いていた西岸の分離壁ほどの
高さはないが、それでも十分バグダッドのグリーンゾーン
などで見慣れたコンクリート壁に匹敵する高さはあるから
3m-5m位はあるといって良いだろう。

同行のパレスチナ人たちはインティファーダだと言って
壁の向こう側に向かって石を投げ始める。
余り感心できないと思いつつ、しかし彼らの思いを
考えると止める事もできずただ見ているしかない。

SL-BL02.JPG

そこから更に見晴らしの良い場所に移動中に国連の車と
すれ違う。中東系の顔つきをした人がブルーのベレー帽を
被って乗車していた。

更に丘の上から国境線を見下ろす形で遥かにパレスチナの
土地を眺める。ここの国境線は基本的にはフェンスで
出来ていた。一部だけコンクリート壁が立っているのが
どういう理由か良くわからない。
SL-BL03.JPG

誰かがまた石を投げたらフェンスに当たってショートして、
電気の火花が散るのが見えた。ここも電線なのだ。
ちょうどこの時間帯に日没となり、たそがれの中に
パレスチナが望めるのがやけに感傷的に思えてしまった。
左手に山々が見え、そこがゴラン高原だと言う話だった。
ここにしばしたたずんだ後、ベイルートまで2時間半の
帰途に着いた。
SL-BL04.JPG

収容所で見た映画などは、多少は訪問者向けの脚色が
入っていると割り引いて考えるとしても、現場を見た
意味は大きい。現実にオリーブの木の生える沃野を
断ち切る電流フェンスとコンクリート壁を見てしまうと、
普段国境を意識することの少ない日本人としては
頭を殴られたようなショックを受けた。そしてこれが
土地の重さなのかと感じた。どうもこういう月並みな
表現しか思い浮かばないところがもどかしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

レバノン訪問記(2)サブラ・シャティーラを忘れない!そして...

not_forget.JPG

サブラ・シャティーラのパレスチナ難民キャンプ訪問(9月17日)

国際戦略会議のプログラムの一環で、ベイルート市内南部に
位置するサブラ・シャティーラのパレスチナ難民キャンプを
訪問した。
同難民キャンプは1982年9月18日にイスラエル軍に包囲され、
レバノンのキリスト教系民兵によって多数のパレスチナ人が
虐殺された。その数は1,000人とも3,000人とも言われている。
当時のイスラエルの国防相が現在のシャロン首相その人であるが、
この事件の責任を問われていない。

サブラ・シャティーラの虐殺より22年目に当たるメモリアルの
時期につき、広場には虐殺の写真パネルがでかでかと展示されて
いた。
shatila_exh.JPG

広場では地元の行政長の挨拶の後、訪問メンバーより順番に
代表の挨拶が続いた。訪問メンバーは反戦活動家が多いためか、
あらかじめ準備して来たバナーや掲示板を掲げてアピールする
者も多かった。
 (必ずしも文面はパレスチナ問題関係に限らず、イラク占領
反対のものもあった。)

広場は出入り自由で普段は子どもの遊び場らしく、
地元の子どもも入って来た。スピーチの邪魔になるとして、
それらの子どもをステージからどかしていたが、それほど
邪魔になるとは思えなかったので、そのまま遊ばせて
おいた方が平和を祈る趣旨に合っていると思った。
 
こういうかつての虐殺の現場で無邪気に遊ぶ子どもたちの姿が
印象的だった。また、広場に植えられていた一本のオリーブの
木も、今後の平和を願う意味で象徴的に思われた。
写真パネルの展示が刺激的だけに、これらに余り注意が
払われていなかったのが残念。
shatila_ch.JPG

shatila_olv.JPG

式典の献花にあった文字は「私たちは忘れない。私たちは許さない。」
これにははっとさせられた。
忘れないだけでなく「許さない」というところに悲しみの深さと
同時にパレスチナ人の今なお続く抵抗の精神を感じた。
しかし、それでもなおどこかで許し合うことはできないのだろうか。

 shatila_v.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

レバノン訪問記(1)ジュニエ、ビブロス、そしてベイルート

ジュニエとビブロス(9月15-16日)

Jounier.JPG
ジュニエは首都ベイルートから海沿いに20kmほど北の町。
元々は漁村で、歴史的にはキリスト教徒マロン派の人々が多い。
内戦時にはベイルートを逃れた主にキリスト教徒の人々が
滞在した町でもある。
この日のドライバーのエリース氏もキリスト教徒だった。
この日、ジュニエのキリスト教教会や更に北部へ足を延ばして
ビブロスの遺跡も見学した。
Byblos1.JPG

ビブロスは、ギリシャ名バビルスで“本”を意味する言葉が
ここから取られたという由緒あるところ。
本は本でも、聖なる本、バイブル(聖書)の名前の発祥の地だ。
ここでは元々からキリスト教とイスラム教が共存しており、
モスクと教会が並んでいる風景も見られた。
Byblos2.JPG

ジュニエでは、独自の産業がないため、町の収入は観光資源に
頼る部分が大きく、町並みは観光客向けに整備され、土産物の
店や訪問客向けの洒落たレストランやカフェが繁盛している。
日本の田舎町でもそんな風景を見たような気がする。
その一方で、教会の陰で物乞いをする子どもたちにも出会った。
物乞いとは言ってもイラクやヨルダンと比べればまだましな
服装をしている。

この子どもたち、物乞いは好ましく思われていないことを
知ってか、写真を撮ろうとすると逃げ回った。
町の人々もこの子どもたちを追い払おうとしていた。
結局、仲良く見えたのは、後からそこにやって来た
宝くじ売りの親父だけだった。
give_me_money.JPG

ベイルート(9月16-21日)

レバノンの首都。歴史的には地中海に面した地の利を生かし、
中継貿易で栄えた都市。
看板も英語やフランス語表記のものがほとんどで、アラビア語
表記一辺倒であったヨルダンやイラクなどと比べ対照的。
イラク行きの荷物を運んでいるというDHLの看板も見かけた。
dhl_iraq

1975-1990年の内戦の影響で、銃弾の跡が見られ廃墟となった
建物が残る一方で、これらを建て替える再開発ラッシュが盛りで、
市内の至るところで高層建築物の建設が進んでいた。
under_const

今なお廃墟となって残るHoliday Inn Beirutのビルは今の
バグダッドを想起させた。
HIB1.JPG

HIB2.JPG

ちなみにこちらがバグダッドの方(2004年4月10日撮影)
bgd_damage.JPG

ベイルートでは、ちょうど17日から19日にかけて、
反戦・反グローバリゼーション国際戦略会議
(Where Next for the Global Anti-War
 and Anti-Globalization Movements?
 International Strategy Meeting - )が開かれていた。

この会議に現地で個人としてオブザーバー参加させてもらった。
会議には世界54カ国から約250団体が参加。
イラク人25名、パレスチナ人25名も参加していた。
(会議の問題点も含めて詳細は
現地英文紙のThe Daily Star紙参照
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_ID=1&article_ID=8564&categ_id=2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.12

イタリアNGO職員誘拐事件の国際NGOへの影響

イタリアのNGO職員の誘拐事件では、夕方5時頃とは言え
まだ明るいうちに堂々と事務所を訪れ、対象者を名指しで
指名して身柄を拘束したと伝えられており、その手口から
他の国際NGOも活動に際して安全基準を見直すなどの対応を
迫られることになった。
これによって国際スタッフがバグダッドに踏みとどまって
以前と同様に活動を続けるには制約が大きくなったということは
言えると思う。そういう意味で今回の事件の影響は大きい。

ただ、これを称して「大部分が撤退を検討」と報道されて
いるのには首を傾げたくなる。まるで活動そのものを停止して
しまうような印象を与えられてしまうからだ。

NGOは普段から地元の人々の協力を得て活動をしているので、
国際スタッフが安全の為に一時退避したからと言って、それで
もって必ずしも活動停止とは言えない。イラク人の協力者なり
スタッフでもって活動を続けることが出来るし、一時的に
国際スタッフが退避したとしても、状況を判断してすぐ戻る
こともある。
今の時点を短期的に切り取って見て、早急に判断して欲しく
ないと思う。
報道の中では、今回の事件にもかかわらず踏みとどまるとした
アルジャジーラの報道が一番実態に近いと思われる。

実際に、4月に外国人人質事件が多発した際にも撤退などと
騒がれた覚えがあるが、実際にその時点で外国人スタッフを
退避させたNGOでも活動を止めたところはほとんどなく、
その後5月には多くの国際NGOスタッフがイラク国内に
戻っている。
この12ヶ月の間にNGO撤退と言われるのは4度目だという
話もある。実際に活動を停止していたら4度も撤退できない。

さて、事件については目撃情報で犯行の手口までは報道されて
いるが、肝心の犯人像がはっきりしていない。
一部に犯人と称するグループが犯行声明をHP上に掲載していると
いう報道があることも承知しているが、このグループが本当の
犯行グループで、声明が本物だとする確証がない。

犯行の手口から考えて、人道支援のNGO職員だということも
わかった上で誘拐している可能性が高いので、話もなかなか
単純に行かない。
この段階で打つ手がないのが実情で、歯がゆい思いをしている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

人の命に差はない

イタリアのNGO職員誘拐事件の件は、その後目ぼしい
情報がなく、心配する気持ちが募るばかりになる。
日本よりは相対的に近いところに居るとは言え、
隣国のヨルダンで独自に得られる情報も少なく、
ここに居て何もできないのが歯がゆい思いをしている。

木曜日にはこのイタリアのNGOにお世話になっている
イラクの子どもたちがバグダッドでデモをしたとか、
金曜日の夜のイタリアでの集会では8,000人余りが
人質の無事解放を祈って集まったとも聞く。
イタリア政府は特使を中東各国に派遣して協議を
しているとも聞く。
そういう周辺の情報ばかりで肝心の4人の状況に関する
情報が少ないのが残念だ。

人道支援関係者だからと言って人の命に特別なことは
ないし、イラク人とイタリア人の間にも命に差はない。
今回はイラク人スタッフも一緒に被害に会っているが、
彼らが囚われの身の間にも、イラクの各地で軍事衝突の
結果、一般市民の犠牲者が出ていることにも気を留めて
おきたい。

9月11日から3周年の式典をニューヨークからの
生中継で見ながら、悲しみを新たにする遺族の涙と、
現在進行形でイラクで失われている命に涙する遺族の
間にも違いはないと思った。

この中継も、ここアンマンでいくつも見られる
衛星TVチャンネルの中で、同時生中継できっちりと
伝えていたのはCNNを除けばイラクのアメリカ系の
衛星放送TV局だけだった。
BBC国際衛星ニュースの欧州のTV局も中継を行わず、
通常の番組を放送。アラブ系メディアのアルジャジーラや
アルアラビーヤも関連番組の放送ではあっても、座談会の
裏で中継画面が出て来たり、現場レポートが間に挟まれる
ということはあっても、同時中継をしているところが
なかったのが、逆に印象的だった。
中東やヨーロッパの視点に立つと、3周年と言えども
アメリカの国内ニュース並みの扱いと言ったところだろうか。

(ヨルダン現地紙アル・ライ9月11日号)
Jordannews911.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.11

9月11日の記録

NYC01.JPG

(写真はニューヨークにて2003年4月撮影)

9月11日の記録

2001年9月11日 東京
会社で残業を終えて帰る直前のニュースチェックで事件のことを
知った。
世界貿易センタービルでの犠牲者の中に大学の同窓で数年下の
後輩が含まれているのを知ったのはそれからしばらく数日後の
ことだった。

2002年9月11日 東京
会社の有給休暇を取って明治公園での集会Be-Inに参加した。
難民受け入れのあり方を考えるネットワークとしてのブース参加で、
日中のイベントでも同年4月末のアフガン難民キャンプ訪問の
経験を話す機会をもらった。
 
(難民受け入れのあり方を考えるネットワーク
  URL http://www.ref-net.org )

2003年9月11日 バグダッド
会社はこの年の1月で辞めていた。
4月19日、ニューヨーク世界貿易センタービル跡地を訪れた。
(ちなみに私はグランドゼロ(=爆心地)という呼び名が
  好きになれない。広島や長崎にはともかく、ニューヨークには
  ふさわしくないと思っている。)
ここで初めて愛しいものを失ったニューヨーカーの悲しみに
 触れた気がした。しかしそれに報復で答えるのは似つかわしく
 ない。
 報復に代わる方法で何ができるのか、それを考える出発点に
 なった気がした。
 この年、9月11日をイラク、バグダッドでこの日を迎えたのは
 何と言う巡り合わせだろうか。しかし、支援活動の忙しさの
 中でこの日を迎えたので、改めて当日の日記を見ても
 特別な感想がない。

2004年9月11日 アンマン
 一年後も中東でこの日を迎えることになった。
 しかし、この時点でイラクの安定と復興状況は一年前の期待と
 大きく異なるものになった。
 さて、一年後の9月11日にはどのような感想を記すことになる
 のだろうか。
 今日も東京でBe-Inは行われていると聞く。http://www.00911.jp/

NYC02.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イラクからのメッセージ

バグダッドでのイタリアNGO職員の誘拐事件はその後の情報が
少なく予断を許さない状況が続いている。
その様な中でもこの事件について触れた便りがイラクやヨルダン
から寄せられているので、印象的なものを紹介したい。

1) Inter-SOS(被害にあったNGOのひとつ)現地代表より

あなたの言葉に感謝しています。
わたしたちが望んでいる最も望ましいこととして全てが
幸せな結果にに終わった時に改めてメッセージを
書くことになることを願います。

2) Inter-SOSスタッフのひとりより

  あなたの精神的な支援に感謝します。
  ここ数日何も書く気になれなかったのを申し訳なく思います。
  あなたとあなた方のスタッフが安全であることを願います。

 
3) ラマディ在住のイラク人青年より

  親愛なる友人へ
  あなたの助けになれればと思います。しかし、あなたも
  ご存じないと思いますが、ここの道は閉鎖されていて、
  その上、私たちは今は私たちの市から外に出ることが
  できないのです。
  しかし、もし人質のご家族がメディアを通して誘拐犯に
  次のような言葉を伝えられたらとても有用ではないかと
  思うのです。

  「預言者モハメドが平和を愛する人としてムスリムに勧めた
   ことを行いなさい。そして、モハメドがBadder戦争の後に
   敵の捕虜に対して行ったことを行いなさい。
   モハメドは敵の捕虜の全員に良き施しをした後に
   釈放しました。
   それで、どのような施しをあなたはイラクの人々を
   救おうとした二人の女性に与えることが出来るのですか。
   私たちはイスラムとモハメドが勧めた良き施しこそが
   あなたが与えられる施しだと思うのです。」

  私はこれらの言葉が十分に役に立つことを願いますし、
  実際に役に立つと思います。

4) 他のNGO関係者のイラク人より
 
  私たちの悲しみを共有してくれてありがとう。
  私たちは既にこれらの人々の解放のために私たちができうる
  すべてのことを行っています。あなたがご存知の通り、皆が
  彼ら(誘拐されたスタッフ)のことを気に掛けています。
  たとえ、私たちイラク人自身が処理しなくてはならない
  沢山の問題を抱えながらもです。

5) ヨルダン在住パレスチナ人より

私は二人のイラク人と二人のイタリア人の誘拐という今回
起こったこの事件をとても遺憾に思う。
  そして、私は人間性を持った人であれば誰しもこの様な
悪しき行いを肯定しないし、私たちイスラムの宗教の教えが
  この様な行いを納得の行くものであると信じることはない。
  私は彼らがすぐに釈放されるものと確信する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

9の語呂合わせ

連日気の滅入る話が多い。
イタリアのNGO職員誘拐事件もその後の続報が少なく、
案じられる状態が続いているが、後から起きたジャカルタの
爆破事件やロシアの学校占拠事件の続報の陰に隠れた形に
なってほとんど報道がないのが気がかりだ。

語呂合わせを信じることはほとんどないのだが、
後にも先にも自分が救急車で運ばれる経験をしたのが
1989年の救急の日とも言われる9月9日のことなので、
どうしてもこの日は気になる。
当時、グリーンピア三木(兵庫県)で行われた自転車
レースに初参加の私は、練習走行中に走行路を横断中の
自動車(そこに来たのは会場整理のミスと思われる)と
衝突するという事故を起こし、救急車で運ばれた。
それ以来、自分が救急車にお世話になる機会はないのだが、
例えばイラクではファルージャやナジャフの最近の例で、
軍事衝突が起きた際に、救急車でさえ射撃を受けるので
患者の搬送の為に現場に近づけないなどと言う話を
聞くたびに胸が苦しくなる思いがする。

9と言えば憲法第9条が気になる方もいると思う。
ついでに憲法第99条を見て欲しい。
この条文の通り憲法及びその精神を尊重しない方々が
最近は増えていると聞き、大いに危惧している。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.09.08

Bridge to Baghdad(バグダッドへの架け橋)

湾岸戦争後からイラクへの支援を続けて来たイタリアのNGOの
UPP(Un ponte per、英語名Brigde to Baghdad=バグダッドへの
架け橋)のイタリア人スタッフ2名が事務所に押し入って来た
武装集団によって拉致されたというニュースを聞く。
同事務所には他のイタリアのNGOも同居しており、
4月のファルージャ救援活動で私もお世話になったInter-SOSの
イラク人スタッフも今回、誘拐されたという。
この事務所は私もたびたび訪れており、緊急の際には避難場所に
使っても良いと声も掛けてもらっていただけにショックが大きい。
古くから人道支援に関わってきたNGOのメンバーが、事務所で
襲われたということもまたショックの種だ。
文字通りバグダッドへの架け橋となって働いてきた人々だと
いうのに。
まずは第一報としておきます。

共同通信
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2004090701004651

BBC(英文ですが、この方が詳しいです)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3635304.stm

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2004.09.07

破壊と再生と

9月6日

ロシア、北オセチア共和国の学校占拠事件は、
きょう時点で330名以上という犠牲者の数が
報じられており、その半数以上がこどもたち
であるという。
経緯が良くわからない点もあるが、犠牲者の
数の多さに慄然とし、心が痛む。

一方、ロシアの事件に目を奪われ、心を痛めて
いる間にも、イラクでも毎日の様に爆破事件が
起き、犠牲者が出ていることも忘れてはならない。
昨日はキルクークで警察の訓練所が襲われ、
きょうはファルージャで米軍の車列が爆破に
会っている。(米軍犠牲者7名、イラク人3名死亡)

電話がつながったバグダッドのS氏も、結構
能天気なところがあったりして、いつものことだ
とは言いつつも、きょうは、市内の目抜き通りの
ハイファ通りで撃ち合いがあったとか、グリーン
ゾーンを中心に4発の迫撃砲攻撃があった
(市内全体では8回の爆発音を聞いた)とか、
サドルシティで戦闘が続いているなどと伝えて来た。

ともすると、毎日の様に起きている事件には
だんだんと感覚が鈍くなって来てしまうのが怖い。
日本でもイラク関係のニュースへの関心が薄まって
いると聞く。

私自身、ここでは皆さんの関心を引くために
きょうのバグダッドの戦闘の話を紹介して
しまったが、関心を保ち続けるのが難しくなる
中で、戦いなどの悪い事件の報道だけが目立ち、
関心を引くというのもまた別の意味で問題だろう。

イラクでも戦争と破壊の報道だけでなく、
平和と再生の動きに心を留めて行きたい。

例えば、バグダッド国際空港に向かう道路は
攻撃にさらされ、道ばたではこういう風景も珍しくない。
(4月18日撮影、さかさまになっている輸送車の燃え殻)
biap_roadside.JPG

しかし、バグダッドはこういう風景だけではない。
戦争で壊された市内のシンドバッド子どもクラブ
(児童館)は昨年1年間、ほとんど修復が手付かず
だった。隣の音楽・バレエ学校も昨年10月の
新学期初日に暴徒に襲われ、焼き討ちに遭うなど
散々な目にあったが、それでも何とか少しずつ
今年になってから修復が進み始め、外壁にも
新しい絵が描かれる様になった。こういう再生の
動きにこそ目を向けて行きたい。
(4月7日撮影)
wall_paint.JPG


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.05

ワン切り携帯電話の発信元は...(2)

<(1)よりつづく>

Aさんの住んでいるキャンプは国境地域の地名(Karama)
を取ってキャンプKと呼ばれている。
このキャンプKと、ヨルダン側にかろうじて入国が
許された者を収容するキャンプA、Bが設けられたのは、
2003年のイラク戦争直前のことだ。
それから一年半が経つ。キャンプBは閉鎖されたが、
未だにヨルダン側のキャンプAにはパレスチナ人を
中心とする165名が、国境線のイラク側で、緩衝地帯
とか無人地帯(No Man’s Land)と呼ばれる地域にある
キャンプKにはイラン系クルド人を中心に1135名が
テント暮らしを余儀なくされている。
(数字は8月9日現在。UNHCR調べ)

ちなみに私はこの無人地帯という言葉がどうしても
好きになれない。原理的には人が存在しないはずの
地域と言う意味なのだろうが、現実にちゃんと人が
居て生活を余儀なくされているのだから。

JVCはこのキャンプに昨年から子どものための
プロジェクトとして、図書を寄贈したり、
ボランティアを送り込んでワークショップを
催したりしていた。そのこともあって、8月中旬に
これらの活動のその後をモニターするとの名目で
キャンプを訪れることが出来た。
その際にキャンプKで会ったのがAさんだった。

7月には、コーラを買うための小銭を得ようと
キャンプを抜け出し、幹線道路を走る車に向かって
物売りをしようとした少年、12歳のマスード君が
トラックにはねられて亡くなっている。
そのご遺族の一家を訪問して、話を伺っていたところ、
このAさんもやって来て、自分たちの窮状を訴え始めた。
イランでは少数派の宗派アル・ハックの信仰を持つため
異端であるとして迫害を受け、イラクへ逃げて来たこと。
そのイラクも安住の地になり得ず、イラク戦争後に
イラク人から迫害を受ける恐れがあってヨルダンに
助けを求めて出て来ようとしたことなど、切々と
訴えられた。

彼らの様に難民として認められても、現実には
受け入れようという国がないことには、行き場が
なく、その場に留まらざるを得なくなるので、
政治的な解決を待つしかない。
私が話しを聞いても、すぐに彼らの将来を決める
ための役に立てないのがつらいところだ。

しかし、そうしている間にも、現に灼熱の砂漠の中
での彼らのテント生活は1年以上も続いている。
そして、その彼らはすくなくともその存在を
忘れられては困ると訴えている。
忘れられては困るから、記念の証にと、少年を亡くした
一家の父親は、私たちに一本のボールペンをくれた。
お返しにあげるものが何もなく、たまたま私が
粗末な景品のペンを持っていたので、それをあげた縁で
ボールペンを私が持つことになった。
景品のペンが立派なペンに化けてしまった。
もらったペンは書き味が良いので重宝しているのだが、
それを見るたびに切なくなる。
忘れないよと声を掛けるのだが、代わりにでは何が
出来るのかと考えると気が重くなる。

ヨルダンの携帯電話は前払い式なので、毎月の手数料は
かからない。それでも電話代は大金なので、かけ直して
欲しかったという。これがワン切りの原因だった。

写真:
亡くなったマスード君の妹、シュロングちゃん(2歳)

Sheroq.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ワン切り携帯電話の発信元は...(1)

9月3日(金)

金曜日はイスラームの休日なので、相手も休みが多く
仕事にならないので、自主的に休みにしている。
3日はまた、アンマン在住の知り合いの誘いもあり、
夕方から知人宅でくつろいでいた。
そういうところで携帯電話に電話がかかって来た。
電波の状態が悪い訳でもないのに1回鳴ると切れて
しまった。
ほどなくして、またかかって来るが、今度も1回
鳴っただけで切れてしまうので、こちらが電話を取る
タイミングを失う。

間違い電話の疑いと、金曜日の休日ということも
頭の隅にあって掛け直すのをためらっていたら、
またかかって来る。
今度こそは取ったと思ったらまた切れてしまった。
さすがに気になってこちらから電話を掛け直してみた。
ワン切り携帯電話の主は誰だろうと、恐る恐るかけて
みたら、相手はちゃんと英語で答えて来る。
誰だか思い出した。
しかしすごいところから掛けて来るものだと改めて思う。
必死だからと言えばそれまでなのだが、何と電話の主は
難民キャンプ在住のイラン人で、自分たちの将来を
何とかしてもらえないかと期待をして掛けて来て
いるのだ。
彼の身の安全のこともあるので、仮にAさんとしておく。

Aさんの住む難民キャンプは、難民キャンプと言っても
並みのところにあるものではない。
ヨルダンとイラクの国境、砂漠のど真ん中の中間地帯で、
イラクから逃げてきた難民の人々が、ヨルダンへの入国が
許されずにその場に留まっているのだ。
電話を受けて、私はこの灼熱の地でAさんに会った時の
ことを思い出した。<(2)へつづく>

写真:
Aさんの窮状を訴える手書きの英文文書と貰ったボールペン

PEN.JPG


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.04

許されざる事態をもたらしたのは誰か

気が重いことではあるが、今日も事件について書く。
他でもない、ロシアで起きたチェチェン武装勢力の仕業と
言われる学校占拠事件の結末についてである。

3日午後1時のBBC衛星放送ニュースをつけると、
それからずっと、現地からの生中継が続いていた。
BBCに限らず、アルジャジーラやアルアラビーヤなどの
中東系の衛星放送局も同様に生中継の映像を写していた。
もどかしいものだが、現場で事件が起こっている最中は
なかなか本当のことがわからないもの。それから夕方に
かけて、情報が新しくなるに連れて、初期段階の被害者の
遺体引き取りの交渉中に、校内の爆発とそれに続く人質の
退避の動きがあり、犯人側からの射撃が始まったことから
治安当局が突入したこと、被害者が150名を越えることが
明らかになって来た。
人質の7割が子供だったということから、この被害者の
中にも多くの子どもたちが含まれている。
人質を取っての実力行使は断じて許されることではない。
まして、その人質が子どもたちであるとなればなおさらの
こと。

人道とは人の道と書く。
戦争や紛争にいまさら人の道もあるまいと笑われるかも
知れないが、それでも越えてはならない一線というものは
かつてあったかと思う。
イラク国内でも先日までのナジャフの軍事衝突の間、
作戦で病院が占拠されて使えない、残った病院への傷病者の
搬送も妨げられた、赤十字や赤新月社の救急車やNGOの
人道支援物資を運んだトラックも待ち伏せ攻撃に遭ったなど、
正にルール無用の惨状が伝えられている。
何が人をここまで非情にさせるのかと疑問に思う。

ヨルダンに住むパレスチナ人の友人は、今回の学校占拠
事件の報を聞いて、かつてPLOがレバノンなど中東各地を
舞台に行った暴力活動を想起させると言う。
しかし、PLOの暴力も何も利する者を生まなかった。
暴力の果てに、暴力が何も生まないことを悟った末に、
調停の席に着いたところから実質的な平和への歩みが
始まったという。

チェチェンの実情を詳しく知らずに軽々しく結論は
出せないが、これから、平和への道を歩むまでの間に
高い代償を払わなくてはならないのかと思うと暗澹となる。
過去の歴史から学ぶことはできないものだろうか。

しかし、ここでこの許されざる事態を目前にして、
平静を失ってはならないと思う。
この事態をもたらしたのは、一体誰なのかを問わなく
てはならない。直接的には学校占拠を引き起こした
武装勢力であることはもちろんだ。
しかし、彼らは自分たちの主張を通したいという、
ただそれだけの理由であれだけのことをしでかしたの
だろうか。
他に取れる手段がないほど彼らを追い詰めた物は何か、
そこまで考えを及ぼさなくてはならない。
他人の命を奪ってまで守らなくてはならないものは、
単なる主義主張に留まらず、彼らもしくはその家族の
生存や存在意義に関わるものではなかっただろうか。
繰り返すが、彼らの取った行為は断じて許されるもの
ではない。しかし、彼らをそこまで追い詰めたものが
ある事まで思いを及ばせないと、彼らに、では他に
どうすれば良かったのかと問われて答える言葉がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.03

ネパール人人質殺害に想う

JVC東京事務所の佐藤真紀が先にBlogに書いているので、
http://www.doblog.com/weblog/myblog/18736
どうしても2番煎じは免れないが、必要があると思うので、
ここでも書きます。

何の話かと言うと、1日に、アンサール・アル・スンニと称する
グループに殺害されたネパール人の人質12名のことだ。
ネパール人と聞いて最初に思い出したのは、3月にバグダッド空港
からアンマンに移動した際に、空港に向かう検問所の警備をしていた
ネパール人のことだった。
どちらかと言うと横柄な態度のアメリカ兵と比べて、物腰の柔らかい
アジア人の顔つきをした警備兵がいて、聞いてみると警備会社の
雇われ兵だった。

しかし、今回の犠牲者は、これら占領軍に直接協力をしていた
人々ではなく、出稼ぎの単純労働者であったという。
中東の国々にはアジア各国から出稼ぎ者が多数来ている。
私のいるここアンマンでも、フィリピン人やスリランカ、インド系と
思しきメイドさんを見かけるし、水商売関係ではロシア系の人々も
いる。
イラクに話を戻しても、人質事件が活発化した頃から、インド人の
出稼ぎ者の渡航を制限したという話を聞いた覚えがあるので、
裏を返せば、それだけの労働者の流れがあったことになる。
フィリピンも、人質事件で軍隊を退いたのも、国策として出稼ぎ者
一般の安全を確保する必要があったからだと聞いている。

こういう出稼ぎの人々が危険な地域に出かけて行くのも、
見返りが大きいからに他ならない。
本国に居ても収入が無い人々が、これらの地域に出かけて
仕事をすれば数ヶ月で一年分の高収入になり、本国に残した
家族の生活が彼らの手によって支えられるのだ。

しかし、こうした稼ぎ手を今回の事件で失った悲しみは察するに
余りある。
ネパールでは報復と称して、少数派のイスラム系のモスクや、
中東へのルートを持つ航空会社の事務所などが焼き討ちに
遭ったという。
「報復の連鎖によっては何も生まれない」とここでしたり顔で
話しても家族を失った者の悲しみは癒されないだろう。
そして、更に進んで省みなくてはならないのは、そういう
したり顔で話す私たち日本人も、実は今の世界の経済構造の
中で繁栄を享受している一方で、これらの貧しい国の人々に
つけを押し付けている加害者になってはいないかと言うことだ。

そういう意味で、私は悲しい。
少子化高齢化社会の中で、将来的に介護の手が足りなくなる
のではないかと日本では懸念されている。
しばらく前の話しになるが、この話を受けて、フィリピンの
大統領が日本の小泉首相にフィリピン人の介護人の
日本での受け入れについて打診したことがあると聞いた。
この話を小泉首相はいとも簡単に断ったという。
そういう話を覚えているので、私はいっそう憂鬱になる。

日本人の人質事件の最中には大騒ぎしたのに、他国の
人質の動向となると、自国民ほど気にしない日本の傾向も
気になる。
もちろん、日本人の犠牲者が出ないに越したことはないし、
万が一犠牲者が出た時に、報復だと大騒ぎされても
困ったことだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.02

中東の「スタ誕」にも政治の影?

私の世代には、日本の人気番組「スター誕生」は懐かしい。
中東にもこういうスーパースターを育てようという
オーディション番組があり、大変な人気だという。
レバノンのテレビ局の「スーパースター」がその番組だ。
(詳しくはJANJANの記事を参照)
http://www.janjan.jp/world/0408/0408258351/1.php

特に今回話題になっているのは、決勝に残った二人が、
ひとりはリビア人、そしてもうひとりがパレスチナ人で、
特にパレスチナ人のアマールはアラファト議長に匹敵する
有名人となり、パレスチナ人にとって期待の星となった。

折りしも、アテネオリンピックの閉会式とも重なる日取り
となった決勝大会(8月29日午後8時30分から)の結果、
優勝したのはリビア人のアイマンになった。
翌々日のヨルダンの英字紙Jordan Timesの最終面には、
悔しがるパレスチナ人の模様が記事になったほどの影響が
あった。(「甘くほろ苦い結末」と題した記事)

Article0831.JPG

しかし、話がこれで終わらないのがややこしい。
きょう(1日)解説をしてくれたヨルダン在住の
パレスチナ人の話によると、決勝大会を前にして、
実に10数年ぶりにパレスチナ自治政府のアラファト議長と
リビアのカダフィ氏が電話で話しをしたという。
ここから先の話はにわかに信じられないが、そこで、
リビア人のアイマンに優勝を譲る代わりに、リビアから
パレスチナ自治政府に対する財政支援の話が持ちかけられた
というのだ。
真偽のほどは全くわからない話であるが、陰謀話の好きな
中東の人々の性格を良く現していると同時に、実際の
政治の方も、なかなかしたたかということを思い起こさせる
話ではある。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

笑顔で再会のモハメッド医師

DrMohammed.JPG

9月1日の朝は、映画監督でイラク関係を取材中の藤本さんと
一緒にアンマン国際空港に向かった。藤本さんは午後の便で
クウェートに飛ぶことになっていたが、その前に朝のうちに
関空発ドバイ経由の便で日本からモハメッド医師が来られるので
会おうという計画。
モハメッド医師は1月から名古屋での研修を受けていて、
このほどイラクへ帰国の途中。
予定の便の遅れはそれほどでなかったものの、肝心のドクターが
中々出て来ない。結局、飛行機の到着から1時間後にようやく
姿を現したドクターは、旅の疲れと、途中でお腹をこわしたと
いう話はあったものの、笑顔、また笑顔で、約8ヶ月の日本の
滞在を充実して過ごされた様子。
私は日本ではお目にかかる機会がなかったので、バスラから
来日して現在も治療中の患者さんのアッバース君と一緒に
1月にバグダッドを出発する時に会って以来の再会。
以前には笑顔の中にも緊張感があったが、それが取れたのは
イラクでの緊張から離れていたためだろうか。
それでも、口を開くと、日本で聞いた情報と言いながら、
イラクの著名な医師が、現政府寄りとみなされて何者からか
脅迫を受けて、イラクを出国しているという話をする。
冗談とも本気ともつかず、「僕もイラクに戻って殺されたら
有名人かなあ」というその口調からはまだ余裕が見えたが、
願わくば、イラクに戻っても、この余裕をそのまま持ち続けて
欲しいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

JIM-NET始動!

Doctors.JPG

(8月11-12日実施のJIM-NETアンマン会議でイラク人ドクターと)

アンマンでの会議の後、JVC佐藤真紀が日本へ帰国後、8月26日に
JCF鎌田理事長、劣化ウラン弾廃絶キャンペーンより映画監督の
鎌仲さんを交えて東京で行った記者会見をもって正式にJIM-NET
(日本イラク医療支援ネットワーク)の始動となったので、ここでも
紹介しておきたい。

1)JVCのHPより
 http://www1.jca.apc.org/jvc/jp/notice/notice20040831_iraq.html

2)記者会見より報道
 共同通信
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040810-00000134-kyodo-soci
  
 朝日新聞
 http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200408280164.html

 日経新聞
 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20040826AT1G2602X26082004.html

現場での支援の調整役を私が仰せつかっている訳で、
先週以来、この場で紹介しているJVCのイラク医療支援活動も
JIM-NETとしての活動と位置づけることもできる。
正式な報告としてはまとまった形でJIM-NETのBlogに
紹介することになるが、日々の記録は今後もこの個人Blogに
紹介する機会もあると思う。

8月後半の納入実績を紹介すると以下の通り。
ナジャフの停戦合意を前にサドル派民兵とイラク軍・米英軍の戦闘が
継続する中で、南部のバスラへ支援物資が届けられたのは幸い
だった。

  8/17(火)  子ども福祉教育病院(バグダッド)向け発送#1
  8/18(水)  同上 バグダッド到着
  8/19(木)  同上 病院納入

  8/23(月) 子ども福祉教育病院(バグダッド)向け発送#2
  8/24(火)  同上 バグダッド到着
  8/25(水)  同上 病院納入
  8/26(木) セントラル教育病院(バグダッド)向け
        バスラ産科小児科病院向け  合計2件を発送

8/27(金) セントラル教育病院向けバグダッド到着
  8/28(土) セントラル教育病院、病院納入
    8/29(日) バスラ産科小児科病院、病院到着(直接納入)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.09.01

BACK TO SCHOOL

Backtoschool.JPG

月が替わって9月になりました。
日本でも学校は新学期の始まりですね。

私のところにも、日本から届くメールの中に、中学・高校時代の
同級生からの懐かしい便りがあり、NGOの支援活動の模様を
中学生の娘さんが夏休みの宿題で扱いたいとの問い合わせが
ありましたが、こういう問い合わせは嬉しいものです。
同級生の娘さんが中学生というのも、年月を感じさせて何ですが、
独身の自分でも、支援活動を通じて、またそれ以外でも、
子どもの姿を見るにつけても、まるで自分の子どもの様な気分に
なることがあります。
ここ中東で自然に街中で見かける子どもさんの数の多さを見る
たびに、中東の大家族と、それに対照的な日本の少子化を
実感します。

ヨルダンでも9月から新学期です。既に今週の始めから、
カバンを持って登下校する姿を見かけるようになりました。
学校の年度はじまりが9月なので、とりわけ大きな区切りです。
街中にも、新学期セールを期待してか、Back to Schoolの広告が
何週間か前から出ていました。
イラクでも今年は9月から無事に学校が始まるかどうか心配して
います。
昨年は戦争の影響で新年度は10月開始になっていましたし、
それでも、JVCとして支援していたバグダッドの音楽・バレエ学校は
10月4日に暴動の影響で焼き討ちにあっていました。
幸いにも同校は復旧していますが、子どもたちの登下校の際の
治安確保や、誘拐防止はまだまだ心配です。

私の住んでいるアパートの1階に、銀行に勤めるイラク人の一家が
住んでいました。夏休みの間に2人の子どもさんがバグダッドから
来ていて、誘われて一緒にドミノゲームで遊んだりしたものですが、
その家族もバグダッドに帰ってしまいました。
バグダッドの治安が悪く、学校の始まりが遅い様だったら
アンマンに戻って来るとの話でしたが、戻ってきて欲しいような
欲しくないような、複雑な心境です。

写真は新学期に関連する記事を掲載している地元英文紙
ジョルダン・タイムズ(こういう記事にも国王が絡むのが
いかにもヨルダンらしいところです)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2004年8月 | トップページ | 2004年10月 »