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2004.08.26

隣国からの支援...3日目に届く

8月24日 アンマン

夕方に携帯電話が鳴る。見慣れない電話番号が表示されたが、
話してみると聞き慣れたバグダッドのDr.Mazinの声。
新たに携帯電話を手に入れたと言う。
おととい送った支援の医薬品一式が今朝10時過ぎに届けられた
との確認もできた。
毎回が今回の様に最短の時間で出来るわけでもないが、着実に
隣国からでも支援が続けられているのが嬉しい。

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2004.08.25

隣国からの支援...2日目

8月24日 アンマン

昨日は「仕入れのプロ」の薬剤師のおかげでバグダッドに
送る薬品がバグダッドの医師から要請があったその日の
うちに揃い、かねてから手配の機材と併せてアンマンから
発送した。

一晩明けて2日目の今日。午後1時過ぎには「輸送のプロ」
の輸送会社の社長から電話で連絡があり、既にバグダッドの
輸送会社の営業所に荷物が到着していると言う。
今朝方にはバグダッド市内でイラク環境省と教育省の大臣を
狙った2発の爆発事件が相次いで発生して、5人が亡くなる
という事件が起きているが、そういう事件を尻目に何とか
荷物は到着している。
早速バグダッド市内のS氏に電話をして、営業所からの荷物の
受け取りと病院への引渡しの駄目押しをする。
荷物の到着が午後になり、病院に医師が居る時間を過ぎて
いるので、引渡しは翌日になる。
午後になると病院から医師がいなくなるのは、別に医師が
怠けてるからではない。むしろ逆だ。
イラクでは病院勤務で保健省から受け取る給料はわずかなので、
生活のために午後は個人の診療所に勤めるという医師が多い。
今回、薬品の支援要請を送って来たDr.Mazinの場合、午前と
午後の2箇所の勤務の後は、自宅にデータを持ち込んで
病院の仕事の残務処理や症例研究に余念がない。
それでも時間が足りなくて、例えばガンや白血病の臨床例を
分析して、劣化ウラン弾との関連性を検証する作業なども
ぜひとも進めて欲しいのだが、なかなかそういう作業も
進んでいないのが現状だ。

ともあれ、要請の翌日には薬品はバグダッドに到着した。
日本ではイラクは何かと危ないところという印象があり、
支援もなかなか届かないと心配される向きもあると聞いて
いるが、手回しさえ良ければこういう対応が可能だということを
知って欲しい。

写真は本日手配中の薬品。もう既にもう1箇所のバグダッドの
病院やバスラ向けなど、次の発送の手配を進めている。

原 文次郎

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2004.08.24

隣国からの支援もプロの仕事のおかげ

8月23日
アンマンは本日も晴天

東京から出張で来ていたJVCイラク担当の佐藤真紀が22日の晩に
アンマンを発ちドイツ経由で帰国の途に着いた。
ぎりぎり22日のフライトでアンマンに飛んで来て再会した
PEACE ONの相澤YATCHさんも23日の朝にはアンマンを発つ
という具合で、皆さん帰国ラッシュ。取り残された感じで
ここに居る自分が少し寂しくもある。

しかし、そんな感傷に浸る暇もなく朝から医療機材の卸し会社の
Abu-Abed氏から医療機材(=カニューレ(固定の静脈注射針))
購入の交渉になる。彼はヨルダン大学病院に勤務するイラク人医師
Dr.Firasの紹介で知った。
バグダッドの子ども福祉教育病院(旧名、通称マンスール教育病院)
のDr.Mazinからの要望で機材は先週に送ったばかりなのだが、
納期を優先して、その時点で手に入る数量だけを送ったので、
必要量を追加での購入だ。
いつもの購入ルートでは少々割高なので、相見積もりを取って、
より安価に購入するためにここを使う。前の職場で電子機器の購買、
調達の経験があるので、こういう事には慣れているが、それなりに
面倒と言えば面倒だ。
購入を終えて仕事場兼用のアパートに戻ると、Dr.Mazinから、
今度は抗生物質の緊急手配の要請のメールが届いており、
ほどなく当のドクター本人から電話がかかって来る。
イラクの電話回線の状態も良くない中で、わざわざアンマンまで
国際電話して来るというのはよほどのこと。
聞くところによると、どうもナジャフをはじめとするイラク国内
情勢の悪化を受けて薬品や機材の物流が停滞していて、普段でも
なかなか届いていない、イラク保健省傘下の流通ルートを通しての
供給が全くだめな様だ。確かにこのところこの病院に限らず、
バグダッドのもうひとつの病院やバスラの病院からも薬品の提供の
要請が次々と届いている。

Dr.Mazinの緊急要請の内容はいつも具体的なので助かる。
今日の話も、感染症対策で投与している抗生物質“Vancomycin”が
水曜日に使い切ってしまい。木曜の朝か、昼過ぎからの投薬に
間に合う様に薬がないと差し支えるという話で、患者さん4名に
一日2回の投与x1週間分の56個(実際は患者さんの容態次第で
2週間連続投与になるので、この2倍が望ましい)とやけに詳しい。

これを我々が供給できないと患者さんはお手上げなのかと思うと、
それもまた頭の痛い話だ。

電話でいつもの購入先の薬剤師のHaitham氏に連絡を取ると、
いとも簡単に今日中に手配ができると言う。実際には彼も
卸し元に掛け合うのだが、そういう苦労を見せずに引き受けて
くれて1時間ほどで商談が成立する。緊急の時に仕入れの
速さで助けてくれる彼の仕事振りはプロと言うにふさわしい。

彼を仕入れのプロと呼ぶとすれば、もうひとり、大変世話になって
いるプロがいる。ヨルダン在住イラク人で運送会社を経営している
Abu-Mazin氏がその人だ。
彼はいつも陽気で、そして下ネタ好きな典型的な(?)イラク人
なのだが、仕事には厳しく、輸送費用の交渉にも結構厳しい。
しかし、散々値段に厳しい交渉をしたかと思うと、実は値段に
代えられないきめ細かいサービスを提供してくれていたり
するので、最終的にはお釣りが来る勘定になる。
イラク国内でもナジャフでの戦闘と平行して、ファルージャへの
米軍の攻撃も止まっていない。そういう情勢下でもアンマンから
バグダッドへの輸送が確保できるのは、彼の会社ではファルージャや
ラマディー出身のドライバーを使っているからだ。
バスラへの輸送も大丈夫かと聞くと、全然問題ないと言う。
どこまで冗談でどこから本当か分からないが、バスラ向けなら
シーア派のドライバーを雇うからと言って不敵な笑みを
浮かべて動じない。こういう人々のおかげで、隣国からでも
支援の物資をタイムリーに届けることができている。

Abu-Mazin氏によると、7月12日にバスラのDr.Jenan に医薬品を
届けたドライバーは、確実に手渡しにするために、ドクターと
連絡を取った上、ドクターが診察の手が空いて受け取りに
出て来れるまで待っていたという。そして、無事に支援物資を
届けたところでドクターは涙を流して喜んでいたと言う。
こういう話を聞いたのは1ヶ月以上も過ぎた今日が初めて。
もちろん、支援物資を送った際に到着確認の報告は貰っていた
のだが、運転手からここまで具体的な報告を聞いて到着を確認
していることにプロの仕事振りを感じるし、それをまた手柄話と
して言い立てずに今まで取っておいているというのも好感が持てる。

こういうプロに仕事を頼む自分がまたプロでなくてはいけないと
自戒する。

原 文次郎

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2004.08.20

国連バグダッド本部爆破事件から1年

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(2003年8月22日撮影の国連バグダッド事務所の現場   撮影: 原 文次郎)

8月は記憶に残る日がいくつもある。

広島、長崎の原爆忌や終戦記念日はもちろんの
こと、御巣鷹山の日航機墜落事件などもそのひとつ
だった。
当時就職活動の最中、新聞社の面接を受けた後、
家に帰ってちょうど夕飯時の時間帯の臨時ニュースで
第一報を見たことなど、自分が事件の関係者では
なかったけれども、その時、何をしていたかを覚えて
いる。(これで年齢がバレてしまいますね。)
アメリカ人にとっては、事件が発生したその時自分が
どこで何をしていたかを覚えている事件としてはケネディ
暗殺事件が上げられるが、9-11などもそれに匹敵する
かもしれない。

閑話休題、2003年8月19日。その日の午後は、
サドルシティー(サドル派民兵と米軍の交戦が現在
問題となっているシーア派の貧しい人々の多く居住
するバグダッド内の地域)の更に外側に位置する最も
貧しい地域で通称「チェチェン」と呼ばれている地域に
対する給水や医療などの支援を相談するために、
以前から協力関係を模索していたドイツのNGO”APN”の
事務所を訪れていた。
確か午後4時前頃だったかと思う。打ち合わせ中に
「ボン」と言う爆発音が聞こえた。バグダッド市内で
爆発音が聞こえることはその頃から良くあることで、
それほど大きな音に聞こえなかったこともあって、私も、
会議の相手も、いつものこととしてそのまま会議を続けた。
会議を終えて、APNの事務所を後にして、ホテルに戻った
ところ、従業員も、宿泊客も皆大騒ぎでテレビにかじりついて
いる。
ホテルの隣はUNDPの事務所ということもあって、そこの
関係者も来ていてトランシーバーでの連絡に忙しい。
そこでテレビでの報道の内容を聞いて初めて国連の爆破
事件を知った。
翌日になって報道された犠牲者のリストを見て、更に
衝撃を受けることになった。事件の前の日にUNICEF
事務所を訪れた際に挨拶を交わしたProgramOfficerの
クリス氏の名前がそこにあった。
UNICEF事務所には、今は高遠さんが手がけていることで
日本でも有名になったバグダッドのストリートチャイルドの
保護の件で相談に出かけた。自分たちで保護施設を作りたい
というイラク人の相談を受けて、UNICEFの児童保護担当者に
その計画表を見せに行った際のことだ。
クリスは直接の担当でなかったので、その日の面会は別の
担当者だったのだけれど、JVCでの活動では何かと相談に
乗ってもらっていて顔見知りだったクリスと、その日も廊下で
行き合わせて挨拶を交わした。

国連事務所爆破とその後の治安状況の悪化を受けて、
UNICEFの国際スタッフは退去し、ストリートチャイルドの
保護の話もUNICEFとの相談はそれ以上は進められなくなった。
爆破当日に打ち合わせをしていたAPNとの話も、その後の
情勢を受けて、国際NGO同士の表立った連携が難しくなり、
見直しとなった。

国連事務所爆破事件によって、人道支援に従事していた
大切な仲間を失い、そして、プログラムも中止や停滞を
余儀なくされた。
それから1年。国連はわずかな選挙監視員を除き、国際
スタッフをイラクに派遣できる体制に戻っていない。

戦闘もファルージャやナジャフ、バグダッド市内でも
サドルシティーを中心にして続いている。

ジュネーブでのアナン国連事務総長の演説を聞きつつ、
この1年は何だったのだろうかと思う。
しかし、これまでに払われた犠牲は無駄にしたくないと
思う。それは、援助関係者の犠牲の話だけではない。

国連事務所の爆破では22名が亡くなったが、イラクの
市民の犠牲者はもっと遥かに多数に上り、しかもまだ
その悲劇は続いている。
日本政府がイラク戦争の加害者であるアメリカを支援して
いることで、間接的にせよ、その悲劇の加害者の側に
日本は立っていることをもっと意識しなくてはいけないと思う。

2004年8月19日アンマンにて

原 文次郎

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